喜屋武ミーぐゎー(シマグチ)

概要

喜屋武ミー小の出身、生まれた所は、首里の儀保。首里の儀保から読谷の牧原に下りて来て、物売りをして、その後今度は、馬の取扱いはよく分かっていたから、荷物運びをを始めた。荷物運びを始めてから今度は嘉手納から山原へ薪や木炭に使う木を切りに行って、嘉手納と比謝橋の方のお店に売って、そして山原船のここからいろんな物を買って、また山原に持って行った。時にはまた砂糖を山原船に積んで那覇港へ運んで、砂糖依託屋へ持って行ったが、その場合に喜屋武ミー小はまちばるの馬貸屋から荷物運びになったので、まちばるにはいない。比謝橋の方へ行ったら今度は、んなーちねーないるんでぃやーに、まちばるから比謝橋の方に下りて来て、若い時からずっと、荷物運びして、読谷、嘉手納の辺りでやっていた。黒糖を馬車に積んで、那覇の砂糖依託屋まで届けて、そうして帰る時にはまたお店で買う品物、素麺や米や油などを買ってまた、嘉手納、比謝橋の辺りのお店へ持って行って売っていた。そんな生活をしていたが喜屋武ミー小は、親から習った武芸、学問はいつになっても忘れなかった。あの時代は荷物運びと言った読谷から那覇までずっと荷物運びをしていたので、道中では乱暴者が出て、那覇へ行くまでに二、三回は出くわした。弱い人達は馬車から砂糖まで取った。悪い奴がいたがこの喜屋武ミー小は、こんなのが来ても何とも思わなかった。馬車にこいつらを担いで行くと、「このやろう。」と言って、青年達は、五、六人で喜屋武ミー小をこらしめようとするが、すぐ一人一人片付けた。那覇に行こうとするがまた那覇までも青年達は待っていて、喜屋武ミー小が砂糖を下ろそうとすると、青年達が、「俺が先だ、御前は後になれ。」と言うが、喜屋武ミー小は誰にでも言う人で、「俺が先だった。」と言った。ここで喧嘩をする時に、この喜屋武ミー小が、 「御前達が後になりなさい。後にならないなら御前達の頭の上にこの砂糖樽を落とすぞ。」と言って、やろうとした、青年達が、「やってみろ。」と言ったので、喜屋武ミー小はいつも馬車に中に六尺棒を入れていて、120斤ある砂糖樽を掬って、「おい、取ってみろ。」と言ったので、ここで今までいきがっていた青年達は、みんな逃げて、「なんだ、逃げやがって。」そう言った、この人の、武士のということが、那覇に行ったり来たり砂糖売りをしているうちに、この乱暴者の青年達が、「ああ、こんなに力持ちの男がいたのか。」と言って。それで後で、「ああ、この人が喜屋武ミー小と言う奴か。」と。もうこの人の名前がまたあっちこっちで有名になったので、「それじゃあ、俺も確かめて見ないといけないなあ。」と言った。また今度、荷物運びをして、後からまた相手の青年達は、この喜屋武ミー小に負けているので、今度は、「またやっつけないといけないなあ。」と言って、夜明け方、他の仲間の手を借りて、鶏を持って行って、遠くから歩いて来たら、この夜明け方、鶏は鳴いたので外れた。この青年たちは、「こいつめ、今度はこうしてやる。」と言って、また青年達が増えてここで待っていて、それで飛んで、「よし、今だ。」と言って、七、八人で捕まえたがどうしようもない。この時にもまた負けた。またもう一つは、比謝橋の方で牛売りをして、子牛を、伊良部、山原辺りに持って行って、売りに行った。その市場でここに来る牛売り達、これが南部辺りの人達で、島尻、那覇、山原からは若い者達もいた。その場合に、風呂屋がいて、この風呂屋は(話者)のお父さんがやっていたが、その二人が盥を取ると言って、喧嘩をしていた。するとある青年が、「ああ、このお爺さんの力は、私達がもかなわないぐらいの力持ちだ。」と言って、この人がもう取ろうとして、この手で押さてやったので、「なんだ、こんなに力があったのか。」と。ある青年が、「おい、御前達、早く逃げなさい。」と、その人はそう言った。隣にいた人も、「おい、御前達、早く逃げないと、ここで殺されるよう。」と言った。青年達が、「何故だ。」と言ったので、「御前達、喜屋武ミー小を知らないのか。」青年達が、「そうか、この人なのか。」とすぐ途中で諦めて逃げたって。そういったようなことで、もっと話はあるが。一番大事な話は、尚寧王が、首里城から廃幡置県で、明け渡ししなければならないと言って、東京に出る時に、そのお供で、喜屋武ミー小とその親が選ばれた。今で言えば大学生ぐらいの年齢だったが、その親子でお供をした。尚寧王が、この東京の男の住んでいる所へ行く途中、悪者が来て、その王様に何かしようとしたら、この親子で取り押さえた。それでその大和の人達は、「沖縄は戦争では負けたが、空手とはこんなに強いものか。」と言ってみんな驚いた。それからまた喜屋武ミー小は空手だけではない。親が、「武芸はもういいだろう、今度は学校に行って、漢学を勉強したら、もう沖縄は帰りなさい。」と言った。喜屋武ミー小はそういった運否の浄土を嗜んで来た。惜しいことに戦後は栄養失調で七九才に石川で亡くなったが、戦さえなければまだまだ元気であった。体もやせ型であった。この人が武士。弱そうであるが。これが人間の嗜み。人間には何処にその才能があるか分からないと思う。

再生時間:9:05

民話詳細DATA

レコード番号 47O416134
CD番号 47O41C325
決定題名 喜屋武ミーぐゎー(シマグチ)
話者がつけた題名
話者名 伊波剛
話者名かな いはつよし
生年月日 19150105
性別
出身地 嘉手納町屋良
記録日 19940222
記録者の所属組織 沖縄国際大学口承研
元テープ番号 嘉手納T26A03
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料 かでなの民話P399
キーワード 喜屋武ミー小,読谷の牧原,比謝橋,馬車
梗概(こうがい) 喜屋武ミー小の出身、生まれた所は、首里の儀保。首里の儀保から読谷の牧原に下りて来て、物売りをして、その後今度は、馬の取扱いはよく分かっていたから、荷物運びをを始めた。荷物運びを始めてから今度は嘉手納から山原へ薪や木炭に使う木を切りに行って、嘉手納と比謝橋の方のお店に売って、そして山原船のここからいろんな物を買って、また山原に持って行った。時にはまた砂糖を山原船に積んで那覇港へ運んで、砂糖依託屋へ持って行ったが、その場合に喜屋武ミー小はまちばるの馬貸屋から荷物運びになったので、まちばるにはいない。比謝橋の方へ行ったら今度は、んなーちねーないるんでぃやーに、まちばるから比謝橋の方に下りて来て、若い時からずっと、荷物運びして、読谷、嘉手納の辺りでやっていた。黒糖を馬車に積んで、那覇の砂糖依託屋まで届けて、そうして帰る時にはまたお店で買う品物、素麺や米や油などを買ってまた、嘉手納、比謝橋の辺りのお店へ持って行って売っていた。そんな生活をしていたが喜屋武ミー小は、親から習った武芸、学問はいつになっても忘れなかった。あの時代は荷物運びと言った読谷から那覇までずっと荷物運びをしていたので、道中では乱暴者が出て、那覇へ行くまでに二、三回は出くわした。弱い人達は馬車から砂糖まで取った。悪い奴がいたがこの喜屋武ミー小は、こんなのが来ても何とも思わなかった。馬車にこいつらを担いで行くと、「このやろう。」と言って、青年達は、五、六人で喜屋武ミー小をこらしめようとするが、すぐ一人一人片付けた。那覇に行こうとするがまた那覇までも青年達は待っていて、喜屋武ミー小が砂糖を下ろそうとすると、青年達が、「俺が先だ、御前は後になれ。」と言うが、喜屋武ミー小は誰にでも言う人で、「俺が先だった。」と言った。ここで喧嘩をする時に、この喜屋武ミー小が、 「御前達が後になりなさい。後にならないなら御前達の頭の上にこの砂糖樽を落とすぞ。」と言って、やろうとした、青年達が、「やってみろ。」と言ったので、喜屋武ミー小はいつも馬車に中に六尺棒を入れていて、120斤ある砂糖樽を掬って、「おい、取ってみろ。」と言ったので、ここで今までいきがっていた青年達は、みんな逃げて、「なんだ、逃げやがって。」そう言った、この人の、武士のということが、那覇に行ったり来たり砂糖売りをしているうちに、この乱暴者の青年達が、「ああ、こんなに力持ちの男がいたのか。」と言って。それで後で、「ああ、この人が喜屋武ミー小と言う奴か。」と。もうこの人の名前がまたあっちこっちで有名になったので、「それじゃあ、俺も確かめて見ないといけないなあ。」と言った。また今度、荷物運びをして、後からまた相手の青年達は、この喜屋武ミー小に負けているので、今度は、「またやっつけないといけないなあ。」と言って、夜明け方、他の仲間の手を借りて、鶏を持って行って、遠くから歩いて来たら、この夜明け方、鶏は鳴いたので外れた。この青年たちは、「こいつめ、今度はこうしてやる。」と言って、また青年達が増えてここで待っていて、それで飛んで、「よし、今だ。」と言って、七、八人で捕まえたがどうしようもない。この時にもまた負けた。またもう一つは、比謝橋の方で牛売りをして、子牛を、伊良部、山原辺りに持って行って、売りに行った。その市場でここに来る牛売り達、これが南部辺りの人達で、島尻、那覇、山原からは若い者達もいた。その場合に、風呂屋がいて、この風呂屋は(話者)のお父さんがやっていたが、その二人が盥を取ると言って、喧嘩をしていた。するとある青年が、「ああ、このお爺さんの力は、私達がもかなわないぐらいの力持ちだ。」と言って、この人がもう取ろうとして、この手で押さてやったので、「なんだ、こんなに力があったのか。」と。ある青年が、「おい、御前達、早く逃げなさい。」と、その人はそう言った。隣にいた人も、「おい、御前達、早く逃げないと、ここで殺されるよう。」と言った。青年達が、「何故だ。」と言ったので、「御前達、喜屋武ミー小を知らないのか。」青年達が、「そうか、この人なのか。」とすぐ途中で諦めて逃げたって。そういったようなことで、もっと話はあるが。一番大事な話は、尚寧王が、首里城から廃幡置県で、明け渡ししなければならないと言って、東京に出る時に、そのお供で、喜屋武ミー小とその親が選ばれた。今で言えば大学生ぐらいの年齢だったが、その親子でお供をした。尚寧王が、この東京の男の住んでいる所へ行く途中、悪者が来て、その王様に何かしようとしたら、この親子で取り押さえた。それでその大和の人達は、「沖縄は戦争では負けたが、空手とはこんなに強いものか。」と言ってみんな驚いた。それからまた喜屋武ミー小は空手だけではない。親が、「武芸はもういいだろう、今度は学校に行って、漢学を勉強したら、もう沖縄は帰りなさい。」と言った。喜屋武ミー小はそういった運否の浄土を嗜んで来た。惜しいことに戦後は栄養失調で七九才に石川で亡くなったが、戦さえなければまだまだ元気であった。体もやせ型であった。この人が武士。弱そうであるが。これが人間の嗜み。人間には何処にその才能があるか分からないと思う。
全体の記録時間数 9:20
物語の時間数 9:05
言語識別 混在
音源の質
テープ番号
予備項目1

トップに戻る

TOP