三孟子(シマグチ)

概要

名護親方、具志頭親方、優れ山田という三人の話だが。優れ山田とおっしゃる人は、名護親方、具志頭親方の先生であった。先生と弟子が、ただの草原で、「我々三人が一生懸命頑張れば、唐の孟子のように偉くなれるか。知恵者になれるか。」と言って話をした。それから、そこは、唐の孟子に例えて、三孟子という地名をつけられた。三孟子での話で、「さあ、各自、思い思いに歌を一つずづ歌ってみよう。」ということになった。最初は、名護親方から、『褒みらりん嫌かん 叱らりん嫌かん〔褒られるのも嫌い 叱られるのも嫌い〕浮世楽々とぅ 暮らしぶさん〔浮世を楽々と 暮らしてみたい〕』と、歌った。「次は具志頭の歌。」と言うと、具志頭親方は、『褒みてぃ叱らりし 世ぬ中ぬ手本〔褒められたり叱られたりするのは 世の中の手本〕沙汰んねん者ぬ 何役立ちゅが〔沙汰もされない者が 何の役に立つのか〕』と。「今度は優れ山田、貴殿の番ですよ。」と言うと、「これ以上の歌といってはない。お前たちが歌ってしまって、私は歌えない。私は船に乗るのだろう。」と言った。しばらくして、この優れ山田は、罪を被って島流しの船に乗せられてしまわれた。船に乗るときに、『泊高橋に 銀の簪落ち〔泊高橋に 銀の簪を落としてしまったが〕いちが夜ぬ明きてぃ 捜てぃさすら〔いつ罪がはれて さすことができるだろう〕』と歌った。これは、優れ山田の歌。罪がはれて、帰って来ることができなければ、落としたこの銀の簪を捜しだしてさすことができないと嘆いたわけ。そうして優れ山田は島流しになった。三人は、三羽烏であったので、寂しかったのでしょうね。その後、唐の皇帝から、「布一反に、字を一文字書いて迎えろ。」という知らせが届き、 「このように来ているが、名護親方も具志頭親方もそのことを考えてくれ。」と、首里の王様がおっしゃった。「これは、私たちでは分かりません。」と答えたらしい。そうしたら、「それでは、これは誰が分かるか。」と言われたら、「これは優れ山田でないとできません。」と。これは、罪を被って島流しにされた優れ山田を、二人の力で呼び戻そうという考えであった。この二人が、分からないということはないが、優れ山田を呼び戻して、罪をはらさせようという考えからであった。「優れ山田でないと、これはできません。」と言うと、「そうなら、早くお迎えして来い。」と言われた。そうして、名護親方と具志頭親方の二人で、お迎えに行った。「なぜ、お前たちは来たか。」と、優れ山田がおっしゃったので、「実は、唐の皇帝が沖縄にいらっしゃるので、布一反に、字を一文字書いて迎えろということだが、貴殿でないと字も書けない。唐の皇帝を迎えることができない。貴殿をお迎えに来ました。」「お前たちが分からないことはないはずだが。」「分からないので、貴殿がいらして教えて下さい。」と言ったら、「それなら、自ら行くか。それでは、具志頭は私の下駄を持ってくれ。名護は、私の傘持ってくれ。」と言われ、二人でお供をして、島流しされていた優れ山田を呼び戻した。そうして、布一反にトという字を書いて、それを唐の旗として那覇港に立てて迎えたという話である。これが、この三孟子の由来の話だよ。

再生時間:5:30

民話詳細DATA

レコード番号 47O421796
CD番号 47O42C055
決定題名 三孟子(シマグチ)
話者がつけた題名
話者名 古謝振裕
話者名かな こじゃしんゆう
生年月日 19080605
性別
出身地 具志川市西原
記録日 19800801
記録者の所属組織 沖縄口承文芸調査団
元テープ番号 具志川市T50 A10
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情 雨降りや祝の席などに聞いた
文字化資料 具志川市史第3巻上641頁
キーワード 名護親方,具志頭親方,優り山田,唐,孟子,三羽烏,皇帝,傘,島流し,
梗概(こうがい) 名護親方、具志頭親方、優れ山田という三人の話だが。優れ山田とおっしゃる人は、名護親方、具志頭親方の先生であった。先生と弟子が、ただの草原で、「我々三人が一生懸命頑張れば、唐の孟子のように偉くなれるか。知恵者になれるか。」と言って話をした。それから、そこは、唐の孟子に例えて、三孟子という地名をつけられた。三孟子での話で、「さあ、各自、思い思いに歌を一つずづ歌ってみよう。」ということになった。最初は、名護親方から、『褒みらりん嫌かん 叱らりん嫌かん〔褒られるのも嫌い 叱られるのも嫌い〕浮世楽々とぅ 暮らしぶさん〔浮世を楽々と 暮らしてみたい〕』と、歌った。「次は具志頭の歌。」と言うと、具志頭親方は、『褒みてぃ叱らりし 世ぬ中ぬ手本〔褒められたり叱られたりするのは 世の中の手本〕沙汰んねん者ぬ 何役立ちゅが〔沙汰もされない者が 何の役に立つのか〕』と。「今度は優れ山田、貴殿の番ですよ。」と言うと、「これ以上の歌といってはない。お前たちが歌ってしまって、私は歌えない。私は船に乗るのだろう。」と言った。しばらくして、この優れ山田は、罪を被って島流しの船に乗せられてしまわれた。船に乗るときに、『泊高橋に 銀の簪落ち〔泊高橋に 銀の簪を落としてしまったが〕いちが夜ぬ明きてぃ 捜てぃさすら〔いつ罪がはれて さすことができるだろう〕』と歌った。これは、優れ山田の歌。罪がはれて、帰って来ることができなければ、落としたこの銀の簪を捜しだしてさすことができないと嘆いたわけ。そうして優れ山田は島流しになった。三人は、三羽烏であったので、寂しかったのでしょうね。その後、唐の皇帝から、「布一反に、字を一文字書いて迎えろ。」という知らせが届き、 「このように来ているが、名護親方も具志頭親方もそのことを考えてくれ。」と、首里の王様がおっしゃった。「これは、私たちでは分かりません。」と答えたらしい。そうしたら、「それでは、これは誰が分かるか。」と言われたら、「これは優れ山田でないとできません。」と。これは、罪を被って島流しにされた優れ山田を、二人の力で呼び戻そうという考えであった。この二人が、分からないということはないが、優れ山田を呼び戻して、罪をはらさせようという考えからであった。「優れ山田でないと、これはできません。」と言うと、「そうなら、早くお迎えして来い。」と言われた。そうして、名護親方と具志頭親方の二人で、お迎えに行った。「なぜ、お前たちは来たか。」と、優れ山田がおっしゃったので、「実は、唐の皇帝が沖縄にいらっしゃるので、布一反に、字を一文字書いて迎えろということだが、貴殿でないと字も書けない。唐の皇帝を迎えることができない。貴殿をお迎えに来ました。」「お前たちが分からないことはないはずだが。」「分からないので、貴殿がいらして教えて下さい。」と言ったら、「それなら、自ら行くか。それでは、具志頭は私の下駄を持ってくれ。名護は、私の傘持ってくれ。」と言われ、二人でお供をして、島流しされていた優れ山田を呼び戻した。そうして、布一反にトという字を書いて、それを唐の旗として那覇港に立てて迎えたという話である。これが、この三孟子の由来の話だよ。
全体の記録時間数 5:30
物語の時間数 5:30
言語識別 方言
音源の質
テープ番号
予備項目1

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