川平の六五歳以上の男は、祭の時は、朝七時三〇分に川平の中心にある宮鳥御嶽に必ず集まって出発し、最初の願いごとは九時に、必ず群星(ムルブシ)御嶽から始まって、次は山川御嶽に移る。そしてその次がみんなが集まった所の宮鳥御嶽、一番最後が海岸端の方にある浜崎御嶽に行く。お神酒を持って行って供える。4名のカミシが酒を持って行き、徳利を回して一杯ずつ盃をまわして飲む。川平には七十年前の昔から神事台帳があり、その台帳に結願祭はお酒四升と記録されている。おそらく三百年かそれ以上前から続く行事と思われる。山川御嶽は、昔、首里の王様にお米とか織物(上布)とかを献上する時に遭難し、宮古の人に助けられた人が、宮古で田植えを手伝って、そのお礼として分けてもらった御嶽。内地の人は縄を張って苗を植えるが、川平の人は田植えが上手で、縄が無くても、端まで真っ直ぐに植える。それから宮鳥御嶽は、昔、首里の侍が石垣を治めに来て、石垣の女を賄いと言って妾にされていたが、その娘が後で川平に来て、宮鳥御嶽の行事の度に山道を辿って石垣の町へお参りに行っているのを上の人が知ったものだから、「かわいそうだ、この娘さんに宮鳥御嶽の裾分けをしてやろう。」ということで宮鳥御嶽はできた。一番下の浜崎御嶽は、前多田(まえたーだー)という家が神元で海のことを祈願して始まったらしい。川平の四山というのは群星御嶽と山川御嶽と宮鳥御嶽と浜崎御嶽のこれが四山(ユーヤマ)で、順番が決まっている。前岳(マエシロ岳)の群星御嶽は、部落の守り神になってるが、神様の名前はない。天から下ってきた偉い神様だから名前がないと話者は思っている。川平の人は群星御嶽を拝んでから次に山川御嶽、そして次に宮鳥御嶽、浜崎御嶽という順序に拝む。浜崎御嶽の横に観音堂がある。坊さんの乗った船が波が荒かったためにこちらの港に碇泊していて、また出航した時に置いてきぼりにされた小僧さんが一生懸命観音様に、「船を帰して下さい。」と祈願をしたら、また波が荒れたために船が帰って来た。それで観音堂ができたらしい。この観音堂は四山の内には入らない。豊年祭の時、必ず群星御嶽、前岳を拝んでから銅鑼や太鼓を鳴らしていく。四山で神事ごとが終わって、余興も終わったら、必ず神元屋まで行って解散。神元屋は、群星御嶽なら南風野家(はいのけ)、山川御嶽なら波照間(はてるま)、というように決まっている。祭りのとき女の人はどうするかというと、それぞれの御嶽のお宮に二日二晩泊まって信仰する(結願祭)。昔の農村の神行事は、ほとんど稲作を基にした行事で、川平では稲作の行事とか神信仰に関する行事が年に二六回ある。その年の行事の日取りは部落の新年総会で、神事部(神事総代、カミシ)の4名(各御嶽から一人ずつ)が中心となって決め、部落の人々に伝える。神事部は一二月に入ったらすぐ新しい年の暦を買ってきて考える。
| レコード番号 | 47O340261 |
|---|---|
| CD番号 | 47O34C018 |
| 決定題名 | 四山の由来と祭り(共通語) |
| 話者がつけた題名 | ユーヤマの話と二十六の諸行事の話 |
| 話者名 | 大底康吉 |
| 話者名かな | おおそこやすきち |
| 生年月日 | 19220423 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県石垣市字川平 |
| 記録日 | 19550911 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 石垣市字川平 T55 A01 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 伝説、 民俗 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | - |
| キーワード | 65歳以上の男性,祭日,お宮参り,四山,結願際,神酒,神事台帳,豊年祭,群星御嶽,マイ岳,宮鳥御嶽,神元屋,南風野家,大浜家,波照間家,山川御嶽,浜崎御嶽,前多田家,海祈願 |
| 梗概(こうがい) | 川平の六五歳以上の男は、祭の時は、朝七時三〇分に川平の中心にある宮鳥御嶽に必ず集まって出発し、最初の願いごとは九時に、必ず群星(ムルブシ)御嶽から始まって、次は山川御嶽に移る。そしてその次がみんなが集まった所の宮鳥御嶽、一番最後が海岸端の方にある浜崎御嶽に行く。お神酒を持って行って供える。4名のカミシが酒を持って行き、徳利を回して一杯ずつ盃をまわして飲む。川平には七十年前の昔から神事台帳があり、その台帳に結願祭はお酒四升と記録されている。おそらく三百年かそれ以上前から続く行事と思われる。山川御嶽は、昔、首里の王様にお米とか織物(上布)とかを献上する時に遭難し、宮古の人に助けられた人が、宮古で田植えを手伝って、そのお礼として分けてもらった御嶽。内地の人は縄を張って苗を植えるが、川平の人は田植えが上手で、縄が無くても、端まで真っ直ぐに植える。それから宮鳥御嶽は、昔、首里の侍が石垣を治めに来て、石垣の女を賄いと言って妾にされていたが、その娘が後で川平に来て、宮鳥御嶽の行事の度に山道を辿って石垣の町へお参りに行っているのを上の人が知ったものだから、「かわいそうだ、この娘さんに宮鳥御嶽の裾分けをしてやろう。」ということで宮鳥御嶽はできた。一番下の浜崎御嶽は、前多田(まえたーだー)という家が神元で海のことを祈願して始まったらしい。川平の四山というのは群星御嶽と山川御嶽と宮鳥御嶽と浜崎御嶽のこれが四山(ユーヤマ)で、順番が決まっている。前岳(マエシロ岳)の群星御嶽は、部落の守り神になってるが、神様の名前はない。天から下ってきた偉い神様だから名前がないと話者は思っている。川平の人は群星御嶽を拝んでから次に山川御嶽、そして次に宮鳥御嶽、浜崎御嶽という順序に拝む。浜崎御嶽の横に観音堂がある。坊さんの乗った船が波が荒かったためにこちらの港に碇泊していて、また出航した時に置いてきぼりにされた小僧さんが一生懸命観音様に、「船を帰して下さい。」と祈願をしたら、また波が荒れたために船が帰って来た。それで観音堂ができたらしい。この観音堂は四山の内には入らない。豊年祭の時、必ず群星御嶽、前岳を拝んでから銅鑼や太鼓を鳴らしていく。四山で神事ごとが終わって、余興も終わったら、必ず神元屋まで行って解散。神元屋は、群星御嶽なら南風野家(はいのけ)、山川御嶽なら波照間(はてるま)、というように決まっている。祭りのとき女の人はどうするかというと、それぞれの御嶽のお宮に二日二晩泊まって信仰する(結願祭)。昔の農村の神行事は、ほとんど稲作を基にした行事で、川平では稲作の行事とか神信仰に関する行事が年に二六回ある。その年の行事の日取りは部落の新年総会で、神事部(神事総代、カミシ)の4名(各御嶽から一人ずつ)が中心となって決め、部落の人々に伝える。神事部は一二月に入ったらすぐ新しい年の暦を買ってきて考える。 |
| 全体の記録時間数 | 17:03 |
| 物語の時間数 | 16:13 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | △ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |