宮良の居住民(共通語)

概要

宮良村の人は南から来た北進族か朝鮮から来た南進族かはっきりは分からんけど、この宮良の古人は元名蔵にいた人ではないかと言われている。そうすると西表や小浜、名蔵の下の浦など八重山の西に上陸した人なら大体は南から来た北進族だから、水嵩で宮良の人の村建てをした人は南から来た北進族だと思われる。その南方から来た人の先祖の住む南方の海上の島々をニライカナイちゅうていたんじゃないかと思うんだ。だから、八重山の古い人たちの一族は北進族が先で、南進族はその後に来たのだろう。この北進族の人達は日本国ができる奈良朝以前に八重山の西表の古見(こ み)に大きな集落を作ってとっても栄え、船を造って北方へ行ったんじゃないかといわれておる。その西表の古見と言うところには、ニーローの神が現れる年は豊作で、この神が現れないときは凶年になったので、古見の人は身辺に草葉をまとい、稲穂や粟とかの穀物の穂を体につけたニーローの神と同じような姿のモーボーの神が現れるようにし、そのモーボーの神を拝むようになった。やがて、古見が栄えて人が多くなると、古見から一番近い小浜島に渡ってやがて小浜が独立した。小浜島は方言で言ったら小古見という意味のクモーマと言う。だから、その小浜島でもそのモーボーの神を拝む祭りが行われるようになった。だから、八重山の人間は南進族か、北進族かと言うと揚子江近くの北京原人を先祖とする南進族とは違って、北進族は南のベトナムじゃないかと言うね。戦時中にベトナムへ行った人が帰ってきて、ベトナムの屋敷の構えは八重山の屋敷の構えと同じで、また、ニーローの神の化身で草木の葉をまとい、頭上に稲穂を載せたモーボーの神の祭りもやってると報告してくれた。奈良時代の以前の小野妹子の遣隋使のころは北京辺りが中国の中心で、長崎からそこまで遠くないから長崎から北風が吹くに秋ごろに東南に渡り、上海かもっと南の方に着いていわゆる仏教の学問などをして、翌年の二月になると、南からの北風が吹くから、南の福州辺から遣隋使の一団は風に任せて帆を上げて北へ向かって来て尖閣列島へ着くわけさ。この遣隋使はその尖閣列島で休んだから、その島を憩(ゆく)い島っちゅうて、この尖閣列島は中国のものだとか台湾のものだとか国際問題になっているけど、無所属の島だったから沖縄の御主加那志は自分の領土だと登野城の何番地って八重山の地域に入れているわけさ。そして、遣隋使の人たちは海上で止まるところもなくていたら島を見つけたら無人島でなく人がおって、この人達と交流したら、言葉も通じたんだろう。それが西表の古見で、そこに滞在したんですよ。そうしたらね、そこに滞在しているうちに古見にあったモーボーの神を見て、「ああ、ここの人は神信仰もしておる。」と言って、そのころ西表は米を栽培していたから、生産地の始まりといわれるようになったんです。そして古見から北に向かって帰ったんです。奈良時代になると遣隋使は、中国は唐になったから遣唐使になった。その遣唐使の人も西表の古見に滞在した。大和朝廷の中枢におる人たちが遣隋使、遣唐使なんかに行って帰ってきてから歴史を作ろうと言い出して、大和朝廷は日本の各地区に風土記を作れと言って作らしたけれど、このとき山水草木は中国は言葉で入ったって。そのころに遣隋使が来て、この八重山を発見して最初に五十三人を大和に連れて行ったんだな。この人達は西表の古見の出だけどね、その土地がまだ沖縄ではないから鹿児島の奄美本島から来た南島人と言うて連れて行ったら、自分たちが歴史作るのに大変ためになったと誉めて褒美をやり、この人達は帰化したという。私は漢文の文字を使って役所の仕事もしたけれど、日本語の文字は中国から来た漢字だから、例えば、山とか川とか草とかは、山川草木と読むでしょ。しかし、ここでは、山、川、川原、草で木は柏の木、カブ木、トムの木、フクの木、カツ木、スル木、樫、檜なんかは日本語の語源になってるから訳さないで、八重山の言葉で解説した。また、八重山の方言では宇宙の名称はティンクツで、太陽はティダ、月はツク、上はイン、川はカーで言語学でも貴重だと言っている。また、南島人はナツカシという言葉を海上でもなんであってもサアリという。このサはね、日本語の語源になるくらい意味がある。だから八重山語は日本の原語ちゅうている。それから次は百二十三人というふうに南島人を増やして大和に連れて行った。ところで、石垣島の一番北は平久保だが、石垣島の狭くなっている伊原間の北側に赤石(あかし)っちゅう部落があって、そこから北の先が平久保の本島になるんです。その平久保の後ろ山の谷間のカーラ川の左側の畔に大和墓っちゅうのがあって、そこに人骨が散らかっとるのを浜崎ヨジっちゅう人が見たって話してた。そこの平久保にはたくさんの人が来て上陸して、その一団はずっと南に下りてきてる。その赤石(あかし)の南側の方のずっと中に入って来ると、トゥール川って言う所があって、あそこあたりから石垣島の周辺は珊瑚礁がずっと続いてあって珊瑚が揉まれてるさ。その珊瑚礁が桃里の東のトゥール渕で切れてるさ。多分貝など取る人たちがいて、そこに上陸する人もおって、その一団はこちらの北の端の伊野田の南風の浦というところに上陸するんだな。また今の星野にも川があって潮が引くと珊瑚礁の切れ目があるから、こにからも入ってったんだけど、多分そこで暮らすには難しいかったのだろう。そのころこの辺はクバンと言うてよ、以前はこの辺にね、先住民があちこちの岩陰やらね、ああいう所に散らかって人が住んでおったんです。そこにこの宮良村が村建てした。それから珊瑚礁は宮良で切れているから宮良湾があるでしょ。その宮良湾に入ってきた一団が宮良の西嘉和良(いるか ー ら)からじゃないかと私は想像するさ。宮良の真中(まなか)は、ビルカメの話だと宮良の先祖の西嘉和良(いるか ー ら)と東嘉和良(あるかー ら)の一族が石垣に上陸して、初めて住んだ所と言われておって、水嵩御嶽(みずたけうたき)がある。その水嵩御嶽(みずたけうたき)では旱魃が続くと村中の男女が総出で火を焚いて、雲を作り雨乞いをする。この水嵩っていう山の側にね、ちょっとした十町くらいの茅の土地があるよ。昔の人は山を伐採したり、伐採しなくてもちょっと火を付けて焼くとすぐ後は種ものが下ろせるて焼き畑農業で、焼き畑農業をやっていた人は火田民とも言って、朝鮮の北部にそういう民族もおるよ。この昔の人は牛や馬を使うこと知らんから、自分で田や畑を耕さないかんけれど、彼らは日本刀を作ったくらいだから、鉈(なた)なんか持っとって、木を切るのにも何か工夫をして、切ってすぐ焼いた後は、何か穀物の種をちょっちょっと蒔いたら芽が出てくるから、それを収穫して穀物を確保したんじゃないかと思うんだ。だから水嵩に住んだ人も、あのあたりの山を火田民みたいに耕作してたんじゃないかと思われる。そういうような関係で北進族は、西表を根拠にして栄えて北へ向かっていったと思うよ。これは民俗学の柳田国男も喜舎場先生とも話して西表の古見の話を聞いて、古見に来たのはの北進族だと書いている。また、ここの仲嵩御嶽の司は、前宇成底ヒデさんの成底家が本家だがね、この仲嵩御嶽は、西嘉和良(いるか ー ら)と東嘉和良(あるか ー ら)の話の後のころだが、昔から八重山ではね、大本主(おもとあるどぅ)と言う於茂登岳の神がね、八重山の神を支配しおったわけだ。その大本主(おもとあるどぅ)六人の娘のうちの一番長女に仲嵩森の辺にお宮を建てて神になれという指示があったらしい。だから、仲嵩御嶽は、大本主(おもとあるどぅ)の命令で、その長女が祀られているお宮だということだよ。

再生時間:32:07:00

民話詳細DATA

レコード番号 47O340723
CD番号 47O34C054
決定題名 宮良の居住民(共通語)
話者がつけた題名 八重山の移住
話者名 前花哲雄
話者名かな まえはなてつお
生年月日 19090304
性別
出身地 沖縄県石垣市宮良
記録日 19980908
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 石垣市字宮良 T117 A01
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説、
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 宮良村,北進族,南進族,元名蔵,水嵩,ニライカナイ,西表,古見ニーローの神,豊作,凶年,モーボーの神,小浜島,クモーマ,ベトナム,遣隋使,尖閣列島,ゆくい島,言語学,西嘉和良,いるかーら,ビルカメ,東嘉和良,あるかーら,水嵩御嶽,雨乞い,焼き畑農業,火田民,仲嵩御嶽,大本主,於茂登岳の神
梗概(こうがい) 宮良村の人は南から来た北進族か朝鮮から来た南進族かはっきりは分からんけど、この宮良の古人は元名蔵にいた人ではないかと言われている。そうすると西表や小浜、名蔵の下の浦など八重山の西に上陸した人なら大体は南から来た北進族だから、水嵩で宮良の人の村建てをした人は南から来た北進族だと思われる。その南方から来た人の先祖の住む南方の海上の島々をニライカナイちゅうていたんじゃないかと思うんだ。だから、八重山の古い人たちの一族は北進族が先で、南進族はその後に来たのだろう。この北進族の人達は日本国ができる奈良朝以前に八重山の西表の古見(こ み)に大きな集落を作ってとっても栄え、船を造って北方へ行ったんじゃないかといわれておる。その西表の古見と言うところには、ニーローの神が現れる年は豊作で、この神が現れないときは凶年になったので、古見の人は身辺に草葉をまとい、稲穂や粟とかの穀物の穂を体につけたニーローの神と同じような姿のモーボーの神が現れるようにし、そのモーボーの神を拝むようになった。やがて、古見が栄えて人が多くなると、古見から一番近い小浜島に渡ってやがて小浜が独立した。小浜島は方言で言ったら小古見という意味のクモーマと言う。だから、その小浜島でもそのモーボーの神を拝む祭りが行われるようになった。だから、八重山の人間は南進族か、北進族かと言うと揚子江近くの北京原人を先祖とする南進族とは違って、北進族は南のベトナムじゃないかと言うね。戦時中にベトナムへ行った人が帰ってきて、ベトナムの屋敷の構えは八重山の屋敷の構えと同じで、また、ニーローの神の化身で草木の葉をまとい、頭上に稲穂を載せたモーボーの神の祭りもやってると報告してくれた。奈良時代の以前の小野妹子の遣隋使のころは北京辺りが中国の中心で、長崎からそこまで遠くないから長崎から北風が吹くに秋ごろに東南に渡り、上海かもっと南の方に着いていわゆる仏教の学問などをして、翌年の二月になると、南からの北風が吹くから、南の福州辺から遣隋使の一団は風に任せて帆を上げて北へ向かって来て尖閣列島へ着くわけさ。この遣隋使はその尖閣列島で休んだから、その島を憩(ゆく)い島っちゅうて、この尖閣列島は中国のものだとか台湾のものだとか国際問題になっているけど、無所属の島だったから沖縄の御主加那志は自分の領土だと登野城の何番地って八重山の地域に入れているわけさ。そして、遣隋使の人たちは海上で止まるところもなくていたら島を見つけたら無人島でなく人がおって、この人達と交流したら、言葉も通じたんだろう。それが西表の古見で、そこに滞在したんですよ。そうしたらね、そこに滞在しているうちに古見にあったモーボーの神を見て、「ああ、ここの人は神信仰もしておる。」と言って、そのころ西表は米を栽培していたから、生産地の始まりといわれるようになったんです。そして古見から北に向かって帰ったんです。奈良時代になると遣隋使は、中国は唐になったから遣唐使になった。その遣唐使の人も西表の古見に滞在した。大和朝廷の中枢におる人たちが遣隋使、遣唐使なんかに行って帰ってきてから歴史を作ろうと言い出して、大和朝廷は日本の各地区に風土記を作れと言って作らしたけれど、このとき山水草木は中国は言葉で入ったって。そのころに遣隋使が来て、この八重山を発見して最初に五十三人を大和に連れて行ったんだな。この人達は西表の古見の出だけどね、その土地がまだ沖縄ではないから鹿児島の奄美本島から来た南島人と言うて連れて行ったら、自分たちが歴史作るのに大変ためになったと誉めて褒美をやり、この人達は帰化したという。私は漢文の文字を使って役所の仕事もしたけれど、日本語の文字は中国から来た漢字だから、例えば、山とか川とか草とかは、山川草木と読むでしょ。しかし、ここでは、山、川、川原、草で木は柏の木、カブ木、トムの木、フクの木、カツ木、スル木、樫、檜なんかは日本語の語源になってるから訳さないで、八重山の言葉で解説した。また、八重山の方言では宇宙の名称はティンクツで、太陽はティダ、月はツク、上はイン、川はカーで言語学でも貴重だと言っている。また、南島人はナツカシという言葉を海上でもなんであってもサアリという。このサはね、日本語の語源になるくらい意味がある。だから八重山語は日本の原語ちゅうている。それから次は百二十三人というふうに南島人を増やして大和に連れて行った。ところで、石垣島の一番北は平久保だが、石垣島の狭くなっている伊原間の北側に赤石(あかし)っちゅう部落があって、そこから北の先が平久保の本島になるんです。その平久保の後ろ山の谷間のカーラ川の左側の畔に大和墓っちゅうのがあって、そこに人骨が散らかっとるのを浜崎ヨジっちゅう人が見たって話してた。そこの平久保にはたくさんの人が来て上陸して、その一団はずっと南に下りてきてる。その赤石(あかし)の南側の方のずっと中に入って来ると、トゥール川って言う所があって、あそこあたりから石垣島の周辺は珊瑚礁がずっと続いてあって珊瑚が揉まれてるさ。その珊瑚礁が桃里の東のトゥール渕で切れてるさ。多分貝など取る人たちがいて、そこに上陸する人もおって、その一団はこちらの北の端の伊野田の南風の浦というところに上陸するんだな。また今の星野にも川があって潮が引くと珊瑚礁の切れ目があるから、こにからも入ってったんだけど、多分そこで暮らすには難しいかったのだろう。そのころこの辺はクバンと言うてよ、以前はこの辺にね、先住民があちこちの岩陰やらね、ああいう所に散らかって人が住んでおったんです。そこにこの宮良村が村建てした。それから珊瑚礁は宮良で切れているから宮良湾があるでしょ。その宮良湾に入ってきた一団が宮良の西嘉和良(いるか ー ら)からじゃないかと私は想像するさ。宮良の真中(まなか)は、ビルカメの話だと宮良の先祖の西嘉和良(いるか ー ら)と東嘉和良(あるかー ら)の一族が石垣に上陸して、初めて住んだ所と言われておって、水嵩御嶽(みずたけうたき)がある。その水嵩御嶽(みずたけうたき)では旱魃が続くと村中の男女が総出で火を焚いて、雲を作り雨乞いをする。この水嵩っていう山の側にね、ちょっとした十町くらいの茅の土地があるよ。昔の人は山を伐採したり、伐採しなくてもちょっと火を付けて焼くとすぐ後は種ものが下ろせるて焼き畑農業で、焼き畑農業をやっていた人は火田民とも言って、朝鮮の北部にそういう民族もおるよ。この昔の人は牛や馬を使うこと知らんから、自分で田や畑を耕さないかんけれど、彼らは日本刀を作ったくらいだから、鉈(なた)なんか持っとって、木を切るのにも何か工夫をして、切ってすぐ焼いた後は、何か穀物の種をちょっちょっと蒔いたら芽が出てくるから、それを収穫して穀物を確保したんじゃないかと思うんだ。だから水嵩に住んだ人も、あのあたりの山を火田民みたいに耕作してたんじゃないかと思われる。そういうような関係で北進族は、西表を根拠にして栄えて北へ向かっていったと思うよ。これは民俗学の柳田国男も喜舎場先生とも話して西表の古見の話を聞いて、古見に来たのはの北進族だと書いている。また、ここの仲嵩御嶽の司は、前宇成底ヒデさんの成底家が本家だがね、この仲嵩御嶽は、西嘉和良(いるか ー ら)と東嘉和良(あるか ー ら)の話の後のころだが、昔から八重山ではね、大本主(おもとあるどぅ)と言う於茂登岳の神がね、八重山の神を支配しおったわけだ。その大本主(おもとあるどぅ)六人の娘のうちの一番長女に仲嵩森の辺にお宮を建てて神になれという指示があったらしい。だから、仲嵩御嶽は、大本主(おもとあるどぅ)の命令で、その長女が祀られているお宮だということだよ。
全体の記録時間数 32:51:00
物語の時間数 32:07:00
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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