ビルカメ御願由来(共通語)

概要

この島の真ん中に水岳という山がある。昔から、この山は神の在所かなんかわからないが、日照りがあると、村中の男女が総出で頂上に上り、木を切って、火をたいて雲を作り、雨乞いをした。この地域にイルカーラ(西瓦)とアルカーラ(東瓦)の一族が住み着いた。この人たちが南方から来た人ならば、西表とか小浜を経由して名蔵辺りから上陸するのが普通である。だから宮良村できたときに住み着いた古代人は、元名蔵の人たちではないかと言われている。この水岳に住んでいたイルカーラ、アルカーラは兄弟で、兄の西瓦が宮良、弟の東瓦が白保の村を建てた。彼らが水岳で生活していたときから、そのように呼ばれていたかはわからない。そこには彼らが神を祀った形跡がある。水岳から百メートルくらい離れたところにフーチューという小さな小高い山がある。この山の後ろに約三十メートルくらい、石が積まれてあるのを話者が十五歳くらいのときに見たことがある。牧場でもないのに、なんでこのような山の中に石が積まれているのか不思議に思い、村の年寄りに尋ねると、そこはお宮であったそうなという答えが帰って来た。戦後、この石はバラスの材料として持っていかれ、山も開墾されて跡形もなくなっているが、沖縄から人が来て拝んでいる。この山の東南に小さな道があるが、この道路の西側の土を掘ったら木炭が出てきた。イルカーラ、アルカーラの人々は、その後、水岳から湿こま(セツコマ)に移った。湿こまというのは湿地のちょっと低い所の意味らしい。ここらあたりは、その後、水田地帯になった。その後、イルカーラ、アルカーラに一族は、水岳の南西のウフザに移った。移転するときの言葉は八重山島の由来記には「差越(さしこし)」と書かれている。これは命令されて引っ越すという意味。その後、また移り、四回目に住んだところが宮良牧中のマコースクというところである。スクというのは昔の城の意味。移動の仕方や、その住む様子から、この西瓦、東瓦は、沖縄から来た南進族だと思われるが、平家の落ち武者ではなかったかとも考えられている。前花さんが管理している宮良のシモバルには、西瓦、東瓦の屋敷跡とおもわれるところがある。井戸もある。1480年頃、平久保半島を掌握していた平久保カナー按司という強力者が、三百頭の牛を持ち、住民を奴隷のように使って苦しめていたところ、西表の慶来慶田城が征伐したという話があるが、平久保カナー按司が三百頭もの牛を持つまでには、当時の繁殖のことなどを考えると三百年はかかると思われる。そこから考えると、1200年か1300年頃には平久保はあったと考えられる。源平の乱が終わったのは1180年である。落ち武者の墓は平久保にもある。そのようなことから、西瓦、東瓦が落ち武者ではなかったかと推測される。1350年に察慶王が牧港に積んであった鉄材を買い上げて、村の外れに鍛冶屋を作り農機具を作らせて、農民に分け与えたという話がある。その頃、宮良では「ナカバンナー」ができた。ここが移動を重ねてきた西瓦、東瓦の宮良部落発祥の地で、ここに掘った井戸がアダドゥー井戸で、宮良の拝所になっている。公民館にあった碑は、彼らの墓所である。大正三年くらいに建てかえられ、瓦の文字が「嘉和良」となっているが、名前を変えてしまうという意味でいろいろと問題になっている。

再生時間:54:49:00

民話詳細DATA

レコード番号 47O340695
CD番号 47O34C051
決定題名 ビルカメ御願由来(共通語)
話者がつけた題名
話者名 前花哲雄
話者名かな まえはなてつお
生年月日 19090304
性別
出身地 沖縄県石垣市宮良
記録日 19970310
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 石垣市字宮良 T114 A05-B01
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 水岳,神,日照り,雨乞い,イルカーラ,西瓦,とアルカーラ,東瓦,一族,兄,宮良,弟,東瓦,白保,神を祀った形跡が,フーチュー,石が積まれてある,お宮で,拝んでいる,木炭,湿こま,セツコマ,ウフザ,差越,宮良牧中,マコースク,南進族,平家の落ち武者,シモバル,屋敷跡,1480年,平久保半島,平久保カナー按司,三百頭の牛,西表,慶来慶田城,征伐した,源平の乱,落ち武者の墓,1350年,察慶王,鉄材,鍛冶屋,ナカバンナー,アダドゥー井戸,拝所,公民館,碑,墓所,大正三年,瓦,文字,嘉和良
梗概(こうがい) この島の真ん中に水岳という山がある。昔から、この山は神の在所かなんかわからないが、日照りがあると、村中の男女が総出で頂上に上り、木を切って、火をたいて雲を作り、雨乞いをした。この地域にイルカーラ(西瓦)とアルカーラ(東瓦)の一族が住み着いた。この人たちが南方から来た人ならば、西表とか小浜を経由して名蔵辺りから上陸するのが普通である。だから宮良村できたときに住み着いた古代人は、元名蔵の人たちではないかと言われている。この水岳に住んでいたイルカーラ、アルカーラは兄弟で、兄の西瓦が宮良、弟の東瓦が白保の村を建てた。彼らが水岳で生活していたときから、そのように呼ばれていたかはわからない。そこには彼らが神を祀った形跡がある。水岳から百メートルくらい離れたところにフーチューという小さな小高い山がある。この山の後ろに約三十メートルくらい、石が積まれてあるのを話者が十五歳くらいのときに見たことがある。牧場でもないのに、なんでこのような山の中に石が積まれているのか不思議に思い、村の年寄りに尋ねると、そこはお宮であったそうなという答えが帰って来た。戦後、この石はバラスの材料として持っていかれ、山も開墾されて跡形もなくなっているが、沖縄から人が来て拝んでいる。この山の東南に小さな道があるが、この道路の西側の土を掘ったら木炭が出てきた。イルカーラ、アルカーラの人々は、その後、水岳から湿こま(セツコマ)に移った。湿こまというのは湿地のちょっと低い所の意味らしい。ここらあたりは、その後、水田地帯になった。その後、イルカーラ、アルカーラに一族は、水岳の南西のウフザに移った。移転するときの言葉は八重山島の由来記には「差越(さしこし)」と書かれている。これは命令されて引っ越すという意味。その後、また移り、四回目に住んだところが宮良牧中のマコースクというところである。スクというのは昔の城の意味。移動の仕方や、その住む様子から、この西瓦、東瓦は、沖縄から来た南進族だと思われるが、平家の落ち武者ではなかったかとも考えられている。前花さんが管理している宮良のシモバルには、西瓦、東瓦の屋敷跡とおもわれるところがある。井戸もある。1480年頃、平久保半島を掌握していた平久保カナー按司という強力者が、三百頭の牛を持ち、住民を奴隷のように使って苦しめていたところ、西表の慶来慶田城が征伐したという話があるが、平久保カナー按司が三百頭もの牛を持つまでには、当時の繁殖のことなどを考えると三百年はかかると思われる。そこから考えると、1200年か1300年頃には平久保はあったと考えられる。源平の乱が終わったのは1180年である。落ち武者の墓は平久保にもある。そのようなことから、西瓦、東瓦が落ち武者ではなかったかと推測される。1350年に察慶王が牧港に積んであった鉄材を買い上げて、村の外れに鍛冶屋を作り農機具を作らせて、農民に分け与えたという話がある。その頃、宮良では「ナカバンナー」ができた。ここが移動を重ねてきた西瓦、東瓦の宮良部落発祥の地で、ここに掘った井戸がアダドゥー井戸で、宮良の拝所になっている。公民館にあった碑は、彼らの墓所である。大正三年くらいに建てかえられ、瓦の文字が「嘉和良」となっているが、名前を変えてしまうという意味でいろいろと問題になっている。
全体の記録時間数 55:46:00
物語の時間数 54:49:00
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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