人魚と津波(共通語)

概要

これはね、私がですね、人魚にまつわる話はですね、私の母方のね、多宇家に伝わる伝統的な話ですがね。今までも残っておりますがね、ずっと、これ、六月でしたかね、七月でしたか、その、これは、皆さんの学校ですか。福田という教授がいらっしゃってね、ぜひ、白保に、この、人魚にね、まつわった、話があるが、白保のどこですかといってね、いらっしゃったが、近くではないんだが、ずっと、二乗、三乗下の星野部落といってね、星野の部落のそばに、ウバレ-と言う所がありますが、そこの海でね、この、人魚の話がありますと、私が申し上げたので、それで、車持ってくるから、ぜひ、現場を見せてくれといったんでね、福田先生と車に乗りながら、あちらの、海も見せてもらい、また〔聞き取り不能〕の近くに田んぼも見せてね、そこに住んでいらっしゃったので、そこの田んぼの跡も見せてね、帰られましたが、ああ、福田先生という先生。皆さんの学校の先生ではないですか。立命館大学の、あれでよ。現場もね、ここに田んぼも作って、ここに住んでもいて、また、この現場の海、ここで、網ですくったところがよ、人魚が取れてね、この、人魚にまつわる話が、ここと言うことで、来られました。これはね、言うと、一七七一年、四月の話です。これは、私は見ておりませんが、もう、祖先から、先輩から、聞いた話で、もう、いろいろね、人が変われば、話も変わるのでね、もう、ありますが、私は聞いた話は、いろいろありますが、一七七一年、四月にね、この、私の母方の多宇家の人が、あちらに田んぼを作っていらっしゃってね、そこで、網を持ってって、魚を取ると言うので、網を持って行った、取ったところが、もう、大きなあれがね、まだ見た事もない人魚がね、含まれて、おったので、これ不思議なもんだねと言って、これ、人を食うかね、と心配してよ、おりましたら、あれが化けてね、人と話をするようになってね、この、人魚が、人魚曰く、「私はね、竜宮から使われてきましたが、〔聞き取り不能〕皆さんから、こんな、捕まってね、もう、心配で、竜宮に帰れんで、皆さんに殺されるかどうか。」と言ってね、「心配でね、非常におりますが、一つ、私は竜宮に帰らなくちゃいけんから、ぜひ私をかえしてください。」とね、海の主(漁師)に泣いてすがったので、「ああそうか、それでは、離してあげましょう。」と言ってね、離したところが、「ああ、良かった、私は運良くね、殺されるかと思いましたが、皆さんのおかげでね、竜宮に帰ることができました。本当にありがとう。」と、お礼を言ってね、「ああ、本当にありがとう、今日ね、私の、死ぬか生きるかの、おお、境にありましたんだがね、本当に、今日はありがたい。皆さんのおかげでね、こんなに命拾いができました。今日のね、命拾いのご恩返しに、来たる四月の二十四日は、これ、石垣島に、すごい大津波がやって来ますんで、あの時はね、近くに高い木がありますんで、そこでね、難を逃れなさい。」と言って、いう事でね、ええ、この、人魚が話した為に、「ああ、そうですか、それはどうもありがとう。」と言ってね、この、朝早くに、人魚が話したように、この、すごく、東南、〔聞き取り不能〕島流してね、なりましたので、「ああ、良かった。人魚のおかげでね、この、津波に、水死せずにね、この、免れたのはね、本当にありがたい。」と言ってね、人魚をあれした人なんかも喜んでね、白保出身だかっらね。白保は、もう、全滅でよ。白保に生き残った人はですね、この宮良家。私のお父さんの、あの人は、九十九歳になっておりますがね、ああ、あの人は、難を逃れた理由はね、この、昔から、八重山はですがね、馬は、もう、朝。山に行ってですね、今みたいに、ガス、そういうものも有りませんからね、山に行って木取ってね、こんなに持ってね、束にしてね、馬に乗ってね、両側に付けてがね、してね、あれがね、水炊き、米炊き、いろいろなもんがね、したので、馬はね、非常にね、そんなのにも利用するし、またね、今は、畜産も、家でね、養っておりますが、昔は全部牧場。牧場でよ。各字に牧場が有りまして、ええ、この、牧場がですね、牛馬を放牧してね、繁殖する場。繁殖してね、あれが、〔聞き取り不能〕で後ろに来たらね、ウスバ、ウスバでよ、もう、喧嘩するしね、また、馬は馬で喧嘩するしでよ、全部、取り出してね、広いから、縄を付けてね、繋いで、馬は、私が申しました通り薪取り。また、今の、この、この、米ですね、米は田んぼで、機械だが、みんなあれして、籾だけを持ってきますがね、昔は、藁ですね、枯れた先によ、この穂が有るでしょ、これを引いてきてね、田んぼで枯れたらよ、〔聞き取り不能〕まで持ってきたら、男は、あれで、ゆいまーるして、田んぼもで持ってきたら、女はですね、あの頃、車も無いから、道にですね、干して、今頃、朝、干したらよ、昼までにひっくり返して、乾燥してよ、〔聞き取り不能〕シラといってね、この、籾干してね、シラと言ってね、後ろの倉庫にね、〔聞き取り不能〕こんな、高い石の上によ、広げて、あれで、また、すすき敷いて、根っこは中にして、藁は外にして、こんなにして、丁度、やってですね、藁を積んで、あれの上は、また、雨が降るでしょ。雨に濡らさんように、萱を編んでね、上から、こんなに、〔聞き取り不能〕、こんなにしてね、こんなに雨を、流す様にしてね、自分のほうの食料、人頭税もあれしてね、取って、また取ってね、〔聞き取り不能〕、こんなに、〔聞き取り不能〕、後ろ、刺が有るんで、針みたいな刺が有るんでね、臼でね、あの刺をとって、また、碾き臼と言って、二人で、こんなに、碾き臼でこんなにやって、籾と殻を剥くんです、それからよ、また、臼でついてよ、(テ-プ編集)竹に昇ってね、難を逃れたという、宮良家はよ、この、部落の農作物保護のために、〔聞き取り不能〕でありましたので、朝早く行ったらね、ヨナ森に逃げてですね、難を逃れたと、昔からね、伝説が、今も残っております。父方のね、宮良家で、難を逃れたというあれが有るし、母方の多宇家はね、野原でいて、田んぼを作っていらっしゃるとき、人魚にね、話を聞いてね、四月二十四日の難を逃れたということで、昔からの、白保はですね、宮良家。難を逃れたのはね、宮良家、私の母方の多宇家、あれから、福仲家、あれからモトハラ家、あれから、崎原家、また、ムカイ家、七軒、八軒だけがね、難を免れて、ええ。人が、二十何名か残っておったらしい。それからよ、波照間からがよ、七、八百人の男女をね、移民で、よこしてね、今になると聞いております。一人だけ。それからね、この、明和の津波のあと、人魚の話だけでなくね、この白保にね、難を免れて、宮良家は〔聞き取り不能〕で、免れた。母方の、ちは、家族みんな元気でね、人魚が、津波が来るから、山に登って難を逃れとね。

再生時間:12:02

民話詳細DATA

レコード番号 47O330377
CD番号 47O33C030
決定題名 人魚と津波(共通語)
話者がつけた題名
話者名 宮良松
話者名かな みやらまつ
生年月日 19031019
性別
出身地 白保
記録日 19970912
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 T136 白保 A-01
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 本格昔話
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 人魚,津波
梗概(こうがい) これはね、私がですね、人魚にまつわる話はですね、私の母方のね、多宇家に伝わる伝統的な話ですがね。今までも残っておりますがね、ずっと、これ、六月でしたかね、七月でしたか、その、これは、皆さんの学校ですか。福田という教授がいらっしゃってね、ぜひ、白保に、この、人魚にね、まつわった、話があるが、白保のどこですかといってね、いらっしゃったが、近くではないんだが、ずっと、二乗、三乗下の星野部落といってね、星野の部落のそばに、ウバレ-と言う所がありますが、そこの海でね、この、人魚の話がありますと、私が申し上げたので、それで、車持ってくるから、ぜひ、現場を見せてくれといったんでね、福田先生と車に乗りながら、あちらの、海も見せてもらい、また〔聞き取り不能〕の近くに田んぼも見せてね、そこに住んでいらっしゃったので、そこの田んぼの跡も見せてね、帰られましたが、ああ、福田先生という先生。皆さんの学校の先生ではないですか。立命館大学の、あれでよ。現場もね、ここに田んぼも作って、ここに住んでもいて、また、この現場の海、ここで、網ですくったところがよ、人魚が取れてね、この、人魚にまつわる話が、ここと言うことで、来られました。これはね、言うと、一七七一年、四月の話です。これは、私は見ておりませんが、もう、祖先から、先輩から、聞いた話で、もう、いろいろね、人が変われば、話も変わるのでね、もう、ありますが、私は聞いた話は、いろいろありますが、一七七一年、四月にね、この、私の母方の多宇家の人が、あちらに田んぼを作っていらっしゃってね、そこで、網を持ってって、魚を取ると言うので、網を持って行った、取ったところが、もう、大きなあれがね、まだ見た事もない人魚がね、含まれて、おったので、これ不思議なもんだねと言って、これ、人を食うかね、と心配してよ、おりましたら、あれが化けてね、人と話をするようになってね、この、人魚が、人魚曰く、「私はね、竜宮から使われてきましたが、〔聞き取り不能〕皆さんから、こんな、捕まってね、もう、心配で、竜宮に帰れんで、皆さんに殺されるかどうか。」と言ってね、「心配でね、非常におりますが、一つ、私は竜宮に帰らなくちゃいけんから、ぜひ私をかえしてください。」とね、海の主(漁師)に泣いてすがったので、「ああそうか、それでは、離してあげましょう。」と言ってね、離したところが、「ああ、良かった、私は運良くね、殺されるかと思いましたが、皆さんのおかげでね、竜宮に帰ることができました。本当にありがとう。」と、お礼を言ってね、「ああ、本当にありがとう、今日ね、私の、死ぬか生きるかの、おお、境にありましたんだがね、本当に、今日はありがたい。皆さんのおかげでね、こんなに命拾いができました。今日のね、命拾いのご恩返しに、来たる四月の二十四日は、これ、石垣島に、すごい大津波がやって来ますんで、あの時はね、近くに高い木がありますんで、そこでね、難を逃れなさい。」と言って、いう事でね、ええ、この、人魚が話した為に、「ああ、そうですか、それはどうもありがとう。」と言ってね、この、朝早くに、人魚が話したように、この、すごく、東南、〔聞き取り不能〕島流してね、なりましたので、「ああ、良かった。人魚のおかげでね、この、津波に、水死せずにね、この、免れたのはね、本当にありがたい。」と言ってね、人魚をあれした人なんかも喜んでね、白保出身だかっらね。白保は、もう、全滅でよ。白保に生き残った人はですね、この宮良家。私のお父さんの、あの人は、九十九歳になっておりますがね、ああ、あの人は、難を逃れた理由はね、この、昔から、八重山はですがね、馬は、もう、朝。山に行ってですね、今みたいに、ガス、そういうものも有りませんからね、山に行って木取ってね、こんなに持ってね、束にしてね、馬に乗ってね、両側に付けてがね、してね、あれがね、水炊き、米炊き、いろいろなもんがね、したので、馬はね、非常にね、そんなのにも利用するし、またね、今は、畜産も、家でね、養っておりますが、昔は全部牧場。牧場でよ。各字に牧場が有りまして、ええ、この、牧場がですね、牛馬を放牧してね、繁殖する場。繁殖してね、あれが、〔聞き取り不能〕で後ろに来たらね、ウスバ、ウスバでよ、もう、喧嘩するしね、また、馬は馬で喧嘩するしでよ、全部、取り出してね、広いから、縄を付けてね、繋いで、馬は、私が申しました通り薪取り。また、今の、この、この、米ですね、米は田んぼで、機械だが、みんなあれして、籾だけを持ってきますがね、昔は、藁ですね、枯れた先によ、この穂が有るでしょ、これを引いてきてね、田んぼで枯れたらよ、〔聞き取り不能〕まで持ってきたら、男は、あれで、ゆいまーるして、田んぼもで持ってきたら、女はですね、あの頃、車も無いから、道にですね、干して、今頃、朝、干したらよ、昼までにひっくり返して、乾燥してよ、〔聞き取り不能〕シラといってね、この、籾干してね、シラと言ってね、後ろの倉庫にね、〔聞き取り不能〕こんな、高い石の上によ、広げて、あれで、また、すすき敷いて、根っこは中にして、藁は外にして、こんなにして、丁度、やってですね、藁を積んで、あれの上は、また、雨が降るでしょ。雨に濡らさんように、萱を編んでね、上から、こんなに、〔聞き取り不能〕、こんなにしてね、こんなに雨を、流す様にしてね、自分のほうの食料、人頭税もあれしてね、取って、また取ってね、〔聞き取り不能〕、こんなに、〔聞き取り不能〕、後ろ、刺が有るんで、針みたいな刺が有るんでね、臼でね、あの刺をとって、また、碾き臼と言って、二人で、こんなに、碾き臼でこんなにやって、籾と殻を剥くんです、それからよ、また、臼でついてよ、(テ-プ編集)竹に昇ってね、難を逃れたという、宮良家はよ、この、部落の農作物保護のために、〔聞き取り不能〕でありましたので、朝早く行ったらね、ヨナ森に逃げてですね、難を逃れたと、昔からね、伝説が、今も残っております。父方のね、宮良家で、難を逃れたというあれが有るし、母方の多宇家はね、野原でいて、田んぼを作っていらっしゃるとき、人魚にね、話を聞いてね、四月二十四日の難を逃れたということで、昔からの、白保はですね、宮良家。難を逃れたのはね、宮良家、私の母方の多宇家、あれから、福仲家、あれからモトハラ家、あれから、崎原家、また、ムカイ家、七軒、八軒だけがね、難を免れて、ええ。人が、二十何名か残っておったらしい。それからよ、波照間からがよ、七、八百人の男女をね、移民で、よこしてね、今になると聞いております。一人だけ。それからね、この、明和の津波のあと、人魚の話だけでなくね、この白保にね、難を免れて、宮良家は〔聞き取り不能〕で、免れた。母方の、ちは、家族みんな元気でね、人魚が、津波が来るから、山に登って難を逃れとね。
全体の記録時間数 15:48
物語の時間数 12:02
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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