明和大津波と白保村建て(共通語)

概要

明和の津波はね、私(あたくし)の聞いた範囲内で、昔、白保という部落があって、白保村と真謝村(まーじゃむら)、二つあったわけですよ。白保村と真謝村です。そして、真謝村というのはですね、明和の津波の前に、やっぱし現在の位置にあったわけですね。そして、真謝主(まーじゃーしゅう)という沖縄から、沖縄の方から、今御願の真謝御嶽とありましたけれど、真謝井戸(まーじゃんがー)とありますね。あの人は沖縄でも偉い人で、まあ、その時に島流しでもされたんじゃないかなあ。島流しであったけれど、白保に着いて、白保の真謝井戸という井戸を掘られたそうです。真謝井戸、井戸がありますね。真謝井戸という。この井戸を、その頃、土の下に水があるということを知らないもんですから、この方はこれがここにいて、水が出るということ。掘って、これから水を運んで、飲んだということですね。それで普通、真謝井戸と名付けています。真謝井戸と。そして、波照間から来た人は、上の村、上のほうにね、上の村、上の村で、上の村という所で生活、え、明和の津波の後ですよ。分村してきた人は、上の村に、「こっちは津波が来るから。」と言って、上の村に。屋敷もあったんです。私の、もう牧場になっているけどね、上の村に居住をして、何十軒かあったらしいんです。明和の津波の後、それで、残った人が〔聞き取り不能〕で、宮良という、残った人、宮良家の方ね。それからまた、多宇(たう)家の方、多宇ですね。多宇というところの方。多宇の多宇家。それから、内原(うちはら)家。内原家。もう一軒は、内原家、宮良家、もう一軒、五軒は、助かったそうですね。助かったそうです。それで、津波が終わって、せっかく真謝井戸を掘ったけれども、そうですね、掘ったけれども埋められてしまった。埋められてしまったもんだから、こっちを探すのに、「ここであった、ここであった。」とゆうて、白保の亀川というお婆さんが、「ここであった。」とはっきりして、掘ってみると、やっぱり、こうであったと、真謝主が掘った後をまた、さらえて、水を汲んで飲んだと。そして、上の村に住んでおった人は、こっちは真謝村、上は白保村、こうゆうことで二つして、この上に住んでる人、「水も遠いし、生活に不便と、不便だ。」と言うことで、津波後、上の村からこっちの村に来て、一つになって白保村、真謝、だから、共に白保村、真謝村という言葉があるでしょう。白保村、真謝村を、が、一つの白保村、明和の津波後に白保村ということになったそうです。そうゆう事を聞かされておりました。下に下りてきて、一つになって白保村を大きく築いて、一つにしたとゆうことを聞かされておりました。ずっと遠、二キ、三キロまで離れて上の方ですね、つまり。それで、こっちは海の方、こう非常に魚取るにも、昔は、こうして、生活しているもんですから、下りてきて、白保村と一緒になって、生き残った人ですね。生き残った人、後それから、上のから波照間のほうから分村してきた人、それと一つになって白保村を築いたと。それも子孫だったと思います。それで、この家は今でも水を持っとる。向こうの亀川という家は、今でも、水の神様の願いをするときに、旧の八月八日は新水日(あらみずにん)といってですね、行事があるんです。白保部落で、八月のですね、十何日。とにかく八月中に水の、部落の行事があるんですね。新水日というですね、新しい水日というですね、新水日、新水日といってね、向こうの、この、部落の幹部がですね、今でもちゃんと何ですか、御神酒、お酒、お湯、供えぞうと言うんですかね、これは。酢の物を作って、そして、向こうで、こう井戸を拝んで、また、あの家塀って拝むようになってるんですよ。八月の十何日だったと、新水日といってですね、そして、これから水を汲んで、これで、この、新水日といって、これで、何か、入れてやると、お酒と一緒にですね、水も汲んできて、汲み入れて、そして、願えるという節は、今でも続いているんです。新水日といって、現在でも続いているんです。

再生時間:9:11

民話詳細DATA

レコード番号 47O330125
CD番号 47O33C009
決定題名 明和大津波と白保村建て(共通語)
話者がつけた題名
話者名 大泊信健
話者名かな おおどまりしんけん
生年月日 19220108
性別
出身地 白保
記録日 19960912
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 T120 白保 A-02
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説、 世間話
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 明和の津波,白保村,真謝村,馬乗真謝,村建て
梗概(こうがい) 明和の津波はね、私(あたくし)の聞いた範囲内で、昔、白保という部落があって、白保村と真謝村(まーじゃむら)、二つあったわけですよ。白保村と真謝村です。そして、真謝村というのはですね、明和の津波の前に、やっぱし現在の位置にあったわけですね。そして、真謝主(まーじゃーしゅう)という沖縄から、沖縄の方から、今御願の真謝御嶽とありましたけれど、真謝井戸(まーじゃんがー)とありますね。あの人は沖縄でも偉い人で、まあ、その時に島流しでもされたんじゃないかなあ。島流しであったけれど、白保に着いて、白保の真謝井戸という井戸を掘られたそうです。真謝井戸、井戸がありますね。真謝井戸という。この井戸を、その頃、土の下に水があるということを知らないもんですから、この方はこれがここにいて、水が出るということ。掘って、これから水を運んで、飲んだということですね。それで普通、真謝井戸と名付けています。真謝井戸と。そして、波照間から来た人は、上の村、上のほうにね、上の村、上の村で、上の村という所で生活、え、明和の津波の後ですよ。分村してきた人は、上の村に、「こっちは津波が来るから。」と言って、上の村に。屋敷もあったんです。私の、もう牧場になっているけどね、上の村に居住をして、何十軒かあったらしいんです。明和の津波の後、それで、残った人が〔聞き取り不能〕で、宮良という、残った人、宮良家の方ね。それからまた、多宇(たう)家の方、多宇ですね。多宇というところの方。多宇の多宇家。それから、内原(うちはら)家。内原家。もう一軒は、内原家、宮良家、もう一軒、五軒は、助かったそうですね。助かったそうです。それで、津波が終わって、せっかく真謝井戸を掘ったけれども、そうですね、掘ったけれども埋められてしまった。埋められてしまったもんだから、こっちを探すのに、「ここであった、ここであった。」とゆうて、白保の亀川というお婆さんが、「ここであった。」とはっきりして、掘ってみると、やっぱり、こうであったと、真謝主が掘った後をまた、さらえて、水を汲んで飲んだと。そして、上の村に住んでおった人は、こっちは真謝村、上は白保村、こうゆうことで二つして、この上に住んでる人、「水も遠いし、生活に不便と、不便だ。」と言うことで、津波後、上の村からこっちの村に来て、一つになって白保村、真謝、だから、共に白保村、真謝村という言葉があるでしょう。白保村、真謝村を、が、一つの白保村、明和の津波後に白保村ということになったそうです。そうゆう事を聞かされておりました。下に下りてきて、一つになって白保村を大きく築いて、一つにしたとゆうことを聞かされておりました。ずっと遠、二キ、三キロまで離れて上の方ですね、つまり。それで、こっちは海の方、こう非常に魚取るにも、昔は、こうして、生活しているもんですから、下りてきて、白保村と一緒になって、生き残った人ですね。生き残った人、後それから、上のから波照間のほうから分村してきた人、それと一つになって白保村を築いたと。それも子孫だったと思います。それで、この家は今でも水を持っとる。向こうの亀川という家は、今でも、水の神様の願いをするときに、旧の八月八日は新水日(あらみずにん)といってですね、行事があるんです。白保部落で、八月のですね、十何日。とにかく八月中に水の、部落の行事があるんですね。新水日というですね、新しい水日というですね、新水日、新水日といってね、向こうの、この、部落の幹部がですね、今でもちゃんと何ですか、御神酒、お酒、お湯、供えぞうと言うんですかね、これは。酢の物を作って、そして、向こうで、こう井戸を拝んで、また、あの家塀って拝むようになってるんですよ。八月の十何日だったと、新水日といってですね、そして、これから水を汲んで、これで、この、新水日といって、これで、何か、入れてやると、お酒と一緒にですね、水も汲んできて、汲み入れて、そして、願えるという節は、今でも続いているんです。新水日といって、現在でも続いているんです。
全体の記録時間数 9:20
物語の時間数 9:11
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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