慶来慶田城用緒(共通語)

概要

八重山の赤蜂の時代は各地区に腕力の強い人が支配していたな。大浜には赤蜂おったでしょ。平久保には平久保加那(ひらくぼかなー)が向こうを支配でおったわけよ。それで四箇を支配していた長田大主と方はね、平久保加那が自分の言うことを全然聞かんもんだから手を焼いていたんです。そのころ西表の祖納には、私の一門の祖先になるんだけど、慶来慶田城用諸と言う人がいて、その人は平家の落武者だったかどうか分からんけれどもね、武芸の達人で、船を持っていて一人で与那国に行ったり、沖縄に行ったりしたりしていたから船の操作がうまかったらしいよ。その人が西表島を支配しておったらしい。それで長田大主という方は、平久保加那が自分の言うことを聞かないもんだから、「平久保加那は自分の力ではどうにもできない。」というわけで、西表の祖内に渡って、慶来慶田城用諸にさあね、「石垣には腕白な平久保加那がおって、自分の言うことを聞かない。だから、向こうの住民も大変困ってる。退治してくれんか。」と頼んだらしいよ。だから、慶来慶田城用諸さんは、「平久保加那は武術に長けておるが、良いだろう。」と言うて平久保まで一人で行ったらしい。慶来慶田城用諸は向こうに行って加那と酒盛りをして、その加那を殺したっていうわけよ。加那は武術に優れているもんだから酒盛りで騙して殺したんじゃないかな。それ以来、平久保の農民も非常に気楽になって、長田大主も政治をとりやすくなったから、これは褒美やらんといけんということで、それを首里王朝に報告したらしいよ。そしたら、首里の王様から沖縄に来るように言われたから、そのときも慶来慶田城用諸は船で一人で行ったらしいよ。首里の王様は、「これは素晴らしい人だ。」と言うわけで、めでたく来たという意味で王様は慶田城という本名に慶来という名前をつけてやったから慶来慶田城用諸という名になった。慶来慶田城用諸は帰りも一人で淡々と帰ってきたと言うわけです。西表の祖内には今でもちゃんと船の出入りする港には旗を立てる所がある。慶来慶田城用諸はその祖内の港から出て与那国に行ったり、西表の古見に行ったり、小浜に行ったりあっちこっち渡って行ったから、あっちこっちにこっちの言葉でグンボウグァーと言う私生児がおるですよ。私達の祖先もそういうものじゃないかと思っていますが、慶田城の子孫になって系図には、私の子孫まで載ってるんです。だから清明祭には、船旅で西表に毎年は行っておったらしい。またこっちでは、元のアメリカ軍の民生官府があった所に焼香(すいこう)の碑を建てて、祖内に向けて拝んで清明をやるんですよ。

再生時間:5:22

民話詳細DATA

レコード番号 47O341262
CD番号 47O34C097
決定題名 慶来慶田城用緒(共通語)
話者がつけた題名
話者名 東白金廣一
話者名かな ひがししろかねこういち
生年月日 19170320
性別
出身地 沖縄県石垣市字平得
記録日 19980314
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 石垣市平得 T76 A05
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 八重山,赤蜂,大浜,平久保,平久保加那,支配,四箇,長田大主,西表,祖納,慶来慶田城用諸,平家の落武者,武芸の達人,船,与那国,沖縄,退治,武術,酒盛り,褒美,首里王朝,港,旗を立てる所,グンボウグァー,私生児,子孫,系図,清明祭,焼香の碑
梗概(こうがい) 八重山の赤蜂の時代は各地区に腕力の強い人が支配していたな。大浜には赤蜂おったでしょ。平久保には平久保加那(ひらくぼかなー)が向こうを支配でおったわけよ。それで四箇を支配していた長田大主と方はね、平久保加那が自分の言うことを全然聞かんもんだから手を焼いていたんです。そのころ西表の祖納には、私の一門の祖先になるんだけど、慶来慶田城用諸と言う人がいて、その人は平家の落武者だったかどうか分からんけれどもね、武芸の達人で、船を持っていて一人で与那国に行ったり、沖縄に行ったりしたりしていたから船の操作がうまかったらしいよ。その人が西表島を支配しておったらしい。それで長田大主という方は、平久保加那が自分の言うことを聞かないもんだから、「平久保加那は自分の力ではどうにもできない。」というわけで、西表の祖内に渡って、慶来慶田城用諸にさあね、「石垣には腕白な平久保加那がおって、自分の言うことを聞かない。だから、向こうの住民も大変困ってる。退治してくれんか。」と頼んだらしいよ。だから、慶来慶田城用諸さんは、「平久保加那は武術に長けておるが、良いだろう。」と言うて平久保まで一人で行ったらしい。慶来慶田城用諸は向こうに行って加那と酒盛りをして、その加那を殺したっていうわけよ。加那は武術に優れているもんだから酒盛りで騙して殺したんじゃないかな。それ以来、平久保の農民も非常に気楽になって、長田大主も政治をとりやすくなったから、これは褒美やらんといけんということで、それを首里王朝に報告したらしいよ。そしたら、首里の王様から沖縄に来るように言われたから、そのときも慶来慶田城用諸は船で一人で行ったらしいよ。首里の王様は、「これは素晴らしい人だ。」と言うわけで、めでたく来たという意味で王様は慶田城という本名に慶来という名前をつけてやったから慶来慶田城用諸という名になった。慶来慶田城用諸は帰りも一人で淡々と帰ってきたと言うわけです。西表の祖内には今でもちゃんと船の出入りする港には旗を立てる所がある。慶来慶田城用諸はその祖内の港から出て与那国に行ったり、西表の古見に行ったり、小浜に行ったりあっちこっち渡って行ったから、あっちこっちにこっちの言葉でグンボウグァーと言う私生児がおるですよ。私達の祖先もそういうものじゃないかと思っていますが、慶田城の子孫になって系図には、私の子孫まで載ってるんです。だから清明祭には、船旅で西表に毎年は行っておったらしい。またこっちでは、元のアメリカ軍の民生官府があった所に焼香(すいこう)の碑を建てて、祖内に向けて拝んで清明をやるんですよ。
全体の記録時間数 7:55
物語の時間数 5:22
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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