平得の七兄弟の長男はね、船を造る造船技術があってね、名前も船屋儀佐(ふなやーぎさー)と言っていた。この人の造った船はイサジョーネーと言って沖縄まで行ったり来たりしたわけよね。この船屋儀佐は技術のある人だからね、井戸を掘ったり、また西に下(お)り井戸と言って、下りて行って上から釣瓶でも汲める井戸がるよね。その井戸を作ったから、そこに祀られておる。また、宮良殿内という所は石垣の名所になっているが、それも平得の船屋儀佐が棟梁だったって言われていて、宮良殿内に川が流れた様な日本庭園ができてるさあね。あれも唐の庭園の影響を受けて船屋儀佐が作ったんじゃないかな。 また妹のウブガニは、ウブガンという名前であったのか分からんけれど、裏の宇里に祀られておるね。そこはウブという地名であったんじゃないかなと思う。次男は嵩田とちゃー言ってね、嵩田と言う所の田んぼを開墾した人で、この人の話はおもしろいのがある。この人が若い時によ、ユイマールとと言って、共同作業で田んぼの開墾をやるというから、十人分とかの御馳走も酒も準備すると、「嵩田の田んぼの全部開墾できるまで何日泊まるかわからん。」と言うから、姉さん達が、「どんなに人を応援に頼んできた。」と言ってもよ、自分一人で行って荒れ地の阿檀(あだん)を引き抜いては投げ、引き抜いては投げて、十名で作る田んぼを一人で作って、十名分とかの食事を自分一人で食べたそうだ。その人がね、開墾がすんだ記念にと言って、この畦にあった大きな川石を担いでね、馬に乗ってね、帰って来た。この人を迎えに行った人が見たら大きな石を持ってね、小さな馬に乗って来るわけ。だから、「あんたはどうしてこんな大きな石を馬に載せないで、担いでいるのか。」と言ったら、「私が担いどるから運べるんだ。」と言ってね、馬から下りて、この石を馬に載せたら馬は持ちきれんで転んだってね。この石は平得後ろのスメタカという所に、その人の墓もあって、そこにこの石があるよ。この次男は嵩田田(たけだたー)をを開けたから、あだ名をタケチャーと言うようになったわけ。このタケチャーは向こうに墓が在ってだからお宮になっておるさあね。平得の村は、現在はここにあるが、ここに来るまで三回、四回移ってからここに来とるよ。村を作っていた山べり川の傍辺りはマラリアが多かったから、これはマラリアとも関係ある、また平坦地が少ないと芋を作ったり作物を作るのに不自由だから、だんだん人間の智恵で生活やり易い所に移って、エエギナーから上原(うえばる)に移って、そのころは上原からまたこの後ろの中道(なかんどう)という今もお宮もあるところに村があったわけ。その中道(なかんどう)にいたみんなに、「ここが上等だから、ここにいらっしゃい、いらっしゃい。」と言う意味の「おーり、おーり」と言ったから、ここを宇里と書いてね宇里(おうりゃー)と言うようになった。そしたらここの畦道はよ、ハブがいっぱいおったって。だからよ、そこを歩くときにはハブに咬まれんようにね、チンマーと言って竹馬に乗って歩いた。だから昔から、向こうの女や子供なんかは、今も高い高い竹馬乗って歩くよ。
| レコード番号 | 47O341219 |
|---|---|
| CD番号 | 47O34C095 |
| 決定題名 | 平得の七人兄弟(共通語) |
| 話者がつけた題名 | - |
| 話者名 | 竹盛生吉郎 |
| 話者名かな | たけもりせいきちろう |
| 生年月日 | 19160709 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県石垣市字平得 |
| 記録日 | 19980314 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 石垣市平得 T74 A01 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 伝説 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | - |
| キーワード | 平得,七兄弟,長男,造船技術,船屋儀佐,イサジョーネー,沖縄,井戸,下り井戸,釣瓶,宮良殿内,石垣,平得,棟梁,庭園,妹,ウブガニ,ウブガン,宇里,嵩田とちゃー,嵩田,田んぼ,開墾した人,ユイマール,阿檀,川石,馬,スメタカ,墓,タケチャー,マラリア,エエギナー,上原,中道,ハブ,チンマー,竹馬 |
| 梗概(こうがい) | 平得の七兄弟の長男はね、船を造る造船技術があってね、名前も船屋儀佐(ふなやーぎさー)と言っていた。この人の造った船はイサジョーネーと言って沖縄まで行ったり来たりしたわけよね。この船屋儀佐は技術のある人だからね、井戸を掘ったり、また西に下(お)り井戸と言って、下りて行って上から釣瓶でも汲める井戸がるよね。その井戸を作ったから、そこに祀られておる。また、宮良殿内という所は石垣の名所になっているが、それも平得の船屋儀佐が棟梁だったって言われていて、宮良殿内に川が流れた様な日本庭園ができてるさあね。あれも唐の庭園の影響を受けて船屋儀佐が作ったんじゃないかな。 また妹のウブガニは、ウブガンという名前であったのか分からんけれど、裏の宇里に祀られておるね。そこはウブという地名であったんじゃないかなと思う。次男は嵩田とちゃー言ってね、嵩田と言う所の田んぼを開墾した人で、この人の話はおもしろいのがある。この人が若い時によ、ユイマールとと言って、共同作業で田んぼの開墾をやるというから、十人分とかの御馳走も酒も準備すると、「嵩田の田んぼの全部開墾できるまで何日泊まるかわからん。」と言うから、姉さん達が、「どんなに人を応援に頼んできた。」と言ってもよ、自分一人で行って荒れ地の阿檀(あだん)を引き抜いては投げ、引き抜いては投げて、十名で作る田んぼを一人で作って、十名分とかの食事を自分一人で食べたそうだ。その人がね、開墾がすんだ記念にと言って、この畦にあった大きな川石を担いでね、馬に乗ってね、帰って来た。この人を迎えに行った人が見たら大きな石を持ってね、小さな馬に乗って来るわけ。だから、「あんたはどうしてこんな大きな石を馬に載せないで、担いでいるのか。」と言ったら、「私が担いどるから運べるんだ。」と言ってね、馬から下りて、この石を馬に載せたら馬は持ちきれんで転んだってね。この石は平得後ろのスメタカという所に、その人の墓もあって、そこにこの石があるよ。この次男は嵩田田(たけだたー)をを開けたから、あだ名をタケチャーと言うようになったわけ。このタケチャーは向こうに墓が在ってだからお宮になっておるさあね。平得の村は、現在はここにあるが、ここに来るまで三回、四回移ってからここに来とるよ。村を作っていた山べり川の傍辺りはマラリアが多かったから、これはマラリアとも関係ある、また平坦地が少ないと芋を作ったり作物を作るのに不自由だから、だんだん人間の智恵で生活やり易い所に移って、エエギナーから上原(うえばる)に移って、そのころは上原からまたこの後ろの中道(なかんどう)という今もお宮もあるところに村があったわけ。その中道(なかんどう)にいたみんなに、「ここが上等だから、ここにいらっしゃい、いらっしゃい。」と言う意味の「おーり、おーり」と言ったから、ここを宇里と書いてね宇里(おうりゃー)と言うようになった。そしたらここの畦道はよ、ハブがいっぱいおったって。だからよ、そこを歩くときにはハブに咬まれんようにね、チンマーと言って竹馬に乗って歩いた。だから昔から、向こうの女や子供なんかは、今も高い高い竹馬乗って歩くよ。 |
| 全体の記録時間数 | 10:57 |
| 物語の時間数 | 10:22 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | ○ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |