司になった理由(共通語)

概要

最初は、自分のお祖母さんが長崎御嶽の司だったので、ばあさんの後かと、2年くらい長崎御嶽を拝んでいたが、神様から「もとをおこせ」と言われ、驚いてユタ通いをした。その後司なんかに、モトはミサキマドマル(岬真泊)の御嶽だと言われたので、新城先生のお母さんなんかと一緒に3年間一日十五日は拝んでいた。そのあと、龍宮の神様を真乙姥御嶽に連れてきて拝んでいて、「そこから生ままらす」と言われて喜んでいたのだが、また「そこから子どもは生まれないよ、元をおこせ」との神の言葉があった。真泊は長田大主が波照間から来た時に着いたところ。元はどこだと聞いても誰も知らない。すると、長田御嶽を拝んでいた人(平田というねえさん)が、私は自分が生まれないから火の元の上の段に私を見せるといった。12段か9段かあがってから火の元の香炉座っていたみたい。そこは、役所に行く人が朝夜拝んでいたところがあったみたい。今は銀行になってる。その人は、小さい時から私をそこに上がらせて、自分は下にいた。この平田さんが「あんた、元をおこしてあげなさい」と私に言った。それで最終的に、基斗御嶽を起こした。私は生後3ヶ月まで、おっぱいを飲んでもそのまま出してしまい、ようがれて(痩せて)骨と皮ばかりになった。司だったおばあさんが心配していろいろ聞いて歩いた。「この子どもは親が生んだけど自分の生まれじをかめさせなさい(拝ませなさい)。」と言われ、干支が辰だから普賢菩薩を生後3ヶ月から拝むようになり、太って人間の子どもらしくなった。これを忘れないように育てられた。旧の1月24日、8月24日はお礼の拝みをする。これを遅れると、学校でも何でも倒れたりした。また今から考えると、台湾に疎開した時のこと。弟がセレベスで海軍兵で行ったけど陸戦隊だったわけ。弟の写真を台湾に持っていって毎日ウチャトゥーするとき、私は本を読んで、「大日本帝国神はこのかた一度も敵に負けたことなく月日とともに国の光が」輝きなさる」と唱えてから、弟に語りかけていた。ある時神が、沖縄人がかみざしを横に差してるから日本は戦負けた、上陸もされると言われた。私は泣いて起きて母に言ったが、負けるというなんて、と叱られた。一週間後、本当に負けたが、あんたの言ったことはあたっていたと言う人もいなかった。考えてみると、この戦世(いくさゆー)の時から神がおりていらっしゃったんだねーと思う。またその時、子どもを一人亡くしたから台湾で自分で焼いて骨にして45日もして持ってきたさ。また、自分は小さい頃から蚕を養って、障子紙や鉛筆を買ったりしていた。あるとき夢で、神が、「おまえは何で蚕を養ってきたのかわかるか」と聞くので、「お金をもうけるために」と答えたら、神は「戦に使う道具、落下傘なんかを作るために蚕を養わせたんだよ」という言葉があった。30代だった。

再生時間:11:35

民話詳細DATA

レコード番号 47O340624
CD番号 47O34C043
決定題名 司になった理由(共通語)
話者がつけた題名
話者名 崎枝キヨ
話者名かな さきえだきよ
生年月日 19160711
性別
出身地 沖縄県石垣市字新川
記録日 19980908
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 石垣市字新川 T51 B02
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 、 その他
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード 長崎御嶽,司,元,基斗御嶽,真泊,長田大主,辰,普賢菩薩,台湾,疎開,神の声
梗概(こうがい) 最初は、自分のお祖母さんが長崎御嶽の司だったので、ばあさんの後かと、2年くらい長崎御嶽を拝んでいたが、神様から「もとをおこせ」と言われ、驚いてユタ通いをした。その後司なんかに、モトはミサキマドマル(岬真泊)の御嶽だと言われたので、新城先生のお母さんなんかと一緒に3年間一日十五日は拝んでいた。そのあと、龍宮の神様を真乙姥御嶽に連れてきて拝んでいて、「そこから生ままらす」と言われて喜んでいたのだが、また「そこから子どもは生まれないよ、元をおこせ」との神の言葉があった。真泊は長田大主が波照間から来た時に着いたところ。元はどこだと聞いても誰も知らない。すると、長田御嶽を拝んでいた人(平田というねえさん)が、私は自分が生まれないから火の元の上の段に私を見せるといった。12段か9段かあがってから火の元の香炉座っていたみたい。そこは、役所に行く人が朝夜拝んでいたところがあったみたい。今は銀行になってる。その人は、小さい時から私をそこに上がらせて、自分は下にいた。この平田さんが「あんた、元をおこしてあげなさい」と私に言った。それで最終的に、基斗御嶽を起こした。私は生後3ヶ月まで、おっぱいを飲んでもそのまま出してしまい、ようがれて(痩せて)骨と皮ばかりになった。司だったおばあさんが心配していろいろ聞いて歩いた。「この子どもは親が生んだけど自分の生まれじをかめさせなさい(拝ませなさい)。」と言われ、干支が辰だから普賢菩薩を生後3ヶ月から拝むようになり、太って人間の子どもらしくなった。これを忘れないように育てられた。旧の1月24日、8月24日はお礼の拝みをする。これを遅れると、学校でも何でも倒れたりした。また今から考えると、台湾に疎開した時のこと。弟がセレベスで海軍兵で行ったけど陸戦隊だったわけ。弟の写真を台湾に持っていって毎日ウチャトゥーするとき、私は本を読んで、「大日本帝国神はこのかた一度も敵に負けたことなく月日とともに国の光が」輝きなさる」と唱えてから、弟に語りかけていた。ある時神が、沖縄人がかみざしを横に差してるから日本は戦負けた、上陸もされると言われた。私は泣いて起きて母に言ったが、負けるというなんて、と叱られた。一週間後、本当に負けたが、あんたの言ったことはあたっていたと言う人もいなかった。考えてみると、この戦世(いくさゆー)の時から神がおりていらっしゃったんだねーと思う。またその時、子どもを一人亡くしたから台湾で自分で焼いて骨にして45日もして持ってきたさ。また、自分は小さい頃から蚕を養って、障子紙や鉛筆を買ったりしていた。あるとき夢で、神が、「おまえは何で蚕を養ってきたのかわかるか」と聞くので、「お金をもうけるために」と答えたら、神は「戦に使う道具、落下傘なんかを作るために蚕を養わせたんだよ」という言葉があった。30代だった。
全体の記録時間数 11:43
物語の時間数 11:35
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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