字石垣の村建て(共通語)

概要

この石垣島の始まりにはいろいろな伝えがある。この島に石城山(いしすくやま)という石山は、穴居生活(けっきょせいかつ)するのに大変都合のいい場所だったので、人が住むようになり、そこに住んで居(お)った人々が次第に石垣島の宮鳥御嶽付近に移住して来て、田圃(たんぼ)を作るんだよな。するとそこに神様が現れてね、その神が三人兄弟の一番上のマタネマシスと言う姉さんに乗り移って宣告する。「お前たちはね、大変正直で人を愛して生きておるから神の意に沿う。これからもそういうふうに人を愛することを大事にして社会を作りなさい。」と言われて消えていったんですね。そして田圃を作ったらね、その田圃だけはどんな悪い条件でも良く実った。それで村の人々が不思議に思うと、「実は神のお告げがあったんだ」と言うことで、神を祀る宮鳥御嶽(みやとりおん)ができて、村の神を信仰が始まった。これが村のはじまり。その人々を中心とした石垣の村ができ、少し離れて登野城(とのぐすく)の村ができた。その後長い年月がたって、1759年、いや、1774年の明和の大津波とは14年だから1757年か、その時、登野城から分かれて大川村ができ、石垣村から分かれて新川村ができたんだよね。それでね、登野城と石垣の二箇所の村は、同時にできたから兄弟村、後にできた大川村と新川村が兄弟村と言う伝えがある。この兄弟村の伝えは、宮鳥御嶽(みやとりおん)の豊年祭などでね、やっぱり間の付き合いとして今も実行されているわけだよな。そのころ村が始まった字石垣は、石垣小学校のすぐ隣だがね、もともと石垣小学校の敷地はね、昔の宮鳥御嶽(みやとりおん)の屋敷の土地だったんですよ。その御嶽の土地を縮小して学校の校庭に学校に作ったんです。村の始まりとは言うけれど、神話では石垣と登野城(とのぐすく)の村ができる前に先住民族も居ったようです。ある神話の中で、「神は人の親でありね、人は神の子である。だから、闘争して殺し合いをしたり、人の財産を奪ったり、弱い者を下人にして使ったりするようなことは、神の意思に沿わないから、もうそういうことをしちゃいかない。」という話があるということは、先住民族とあとから来た民族の間で闘争の時代があったことを示していると思う。それを越えて、先のような人倫の基本に関するような言葉は、かなり高級な言葉だから、南方から渡って来た原住民の低いレベルでは言いえない言葉だよな。これは北の方から日本の九州の海岸から次第に南下してきて、八重山の石垣島に到達した文化を持ち、人倫道徳などを解した弥生民族が後からこの島に来てそういうふうなことを言ったと思うんです。先住民族がいつ来たかということはわからない。

再生時間:6:48

民話詳細DATA

レコード番号 47O340807
CD番号 47O34C061
決定題名 字石垣の村建て(共通語)
話者がつけた題名
話者名 牧野清
話者名かな まきのきよし
生年月日 19100519
性別
出身地 沖縄県石垣市字登野城
記録日 19970913
記録者の所属組織 沖縄口承文芸学術調査団
元テープ番号 石垣市登野城 T07 A03
元テープ管理者 沖縄伝承話資料センター
分類 伝説
発句(ほっく)
伝承事情
文字化資料
キーワード
梗概(こうがい) この石垣島の始まりにはいろいろな伝えがある。この島に石城山(いしすくやま)という石山は、穴居生活(けっきょせいかつ)するのに大変都合のいい場所だったので、人が住むようになり、そこに住んで居(お)った人々が次第に石垣島の宮鳥御嶽付近に移住して来て、田圃(たんぼ)を作るんだよな。するとそこに神様が現れてね、その神が三人兄弟の一番上のマタネマシスと言う姉さんに乗り移って宣告する。「お前たちはね、大変正直で人を愛して生きておるから神の意に沿う。これからもそういうふうに人を愛することを大事にして社会を作りなさい。」と言われて消えていったんですね。そして田圃を作ったらね、その田圃だけはどんな悪い条件でも良く実った。それで村の人々が不思議に思うと、「実は神のお告げがあったんだ」と言うことで、神を祀る宮鳥御嶽(みやとりおん)ができて、村の神を信仰が始まった。これが村のはじまり。その人々を中心とした石垣の村ができ、少し離れて登野城(とのぐすく)の村ができた。その後長い年月がたって、1759年、いや、1774年の明和の大津波とは14年だから1757年か、その時、登野城から分かれて大川村ができ、石垣村から分かれて新川村ができたんだよね。それでね、登野城と石垣の二箇所の村は、同時にできたから兄弟村、後にできた大川村と新川村が兄弟村と言う伝えがある。この兄弟村の伝えは、宮鳥御嶽(みやとりおん)の豊年祭などでね、やっぱり間の付き合いとして今も実行されているわけだよな。そのころ村が始まった字石垣は、石垣小学校のすぐ隣だがね、もともと石垣小学校の敷地はね、昔の宮鳥御嶽(みやとりおん)の屋敷の土地だったんですよ。その御嶽の土地を縮小して学校の校庭に学校に作ったんです。村の始まりとは言うけれど、神話では石垣と登野城(とのぐすく)の村ができる前に先住民族も居ったようです。ある神話の中で、「神は人の親でありね、人は神の子である。だから、闘争して殺し合いをしたり、人の財産を奪ったり、弱い者を下人にして使ったりするようなことは、神の意思に沿わないから、もうそういうことをしちゃいかない。」という話があるということは、先住民族とあとから来た民族の間で闘争の時代があったことを示していると思う。それを越えて、先のような人倫の基本に関するような言葉は、かなり高級な言葉だから、南方から渡って来た原住民の低いレベルでは言いえない言葉だよな。これは北の方から日本の九州の海岸から次第に南下してきて、八重山の石垣島に到達した文化を持ち、人倫道徳などを解した弥生民族が後からこの島に来てそういうふうなことを言ったと思うんです。先住民族がいつ来たかということはわからない。
全体の記録時間数 7:03
物語の時間数 6:48
言語識別 共通語
音源の質
テープ番号
予備項目1

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