与那国島の一番最初の始まりと言うのはね、方言ではアーマンチャーとかうアッピとか言うヤドカリ、ヤドカリが住んでいたとか、出てきたとか言う話があるんですよ。これはあまりばかばかしく荒唐無稽だから、その話は詳しく聞いてないです。与那国島は考古学的に言ってもね、何世紀ごろから始まったのか、実はあまり分からないんですよ。結局ね、与那国島の一番古い話というと宮古から移ってきたという話です。宮古に女ばかりの村があってね、男はいないけどね、風で子供を孕んで子供を産んで、そこを守る強い牛がおってね、外来の者に対しては、牛が出て力で排除したと言うようなことがあったんだが、その牛が結局負けたからね、女達は子供を菜の花の咲いているところに子供たちを皆追いやってね、自分たちは筏(いかだ)に乗ってね、宮古の島を離れて与那国に着いたと言う話があるんですよね。子供たちは恐らく全滅しただろうけれども、その女たちは与那国に着いて、また生活を始めたと言うことで、そこから初めて与那国と宮古との交通が始まったそうだという昔話があるということを聞いたんです。それで、そのころは多良間はね、八重山の所属だったって。ところがね、オヤケ赤蜂反乱事件の一五〇〇年の直前のころからね、与那国は八重山を大島(うふじま)と言ってだんだん近い八重山と交通するようになったから、宮古とは疎遠になってしまって宮古からは疑われてくるようになるわけよね。そこへオヤケ赤蜂反乱事件が起こると、宮古の仲宗根(なかぞね)の豊見親(とぅいみやー)は、琉球王府軍の先導になってね、そして多良間の土原豊見親(んたばるとぅいみやー)はその宮古の先導になって八重山に攻めてきた。そういうことで、宮古と沖縄とはそのときから一つになった。与那国は結局沖縄とはだんだん離れて八重山に所属するようになった。これは宮古としてはおもしろくないわけよね。それでオヤケ赤蜂反乱事件のときにね、宮古はね、琉球王府軍を先導して活躍するとともに、一つの別部隊を作ってね、与那国を攻略した。ところがね、与那国はね、ああいう性格の島だから人々だからね、これに対してどう対応したかと言うことだな。この対応したっと言う伝えが二つあるわけだよ。一つはね、宮古の史書の旧記の中ではね、与那国は土地険阻でね、人々は荒くてね、非常に抵抗して攻略することができずに虚しく帰ったと宮古の旧記には書いてある。結局は目的を達することはできなかったんだと書いてあるんだね。与那国の旧記ではね、宮古の軍は上陸してね、住民を欲しいままに殺害した。それをね、サンアイイソバが活動してね、辛くもこの宮古軍を追っ払った。だから、結局宮古の軍は散々な目にあわされたんだというんだね。このような二つの伝えがあるわけよね。だから、宮古の伝えと与那国の伝えとまったく正反対なんだ。しかしね、与那国の人の性格だからね、簡単には負けたはずがない。負けても必ず何かやったにちがいないと思われるんだよな。そのときにサンアイイソバの弟達は宮古の軍に殺されたと言う。
| レコード番号 | 47O340849 |
|---|---|
| CD番号 | 47O34C065 |
| 決定題名 | 与那国島と宮古(共通語) |
| 話者がつけた題名 | 女の島 ミドゥンズマ |
| 話者名 | 牧野清 |
| 話者名かな | まきのきよし |
| 生年月日 | 19100519 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 沖縄県石垣市字大川 |
| 記録日 | 19980312 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄口承文芸学術調査団 |
| 元テープ番号 | 石垣市登野城 T10 A04 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 本格昔話、 伝説 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | - |
| キーワード | 与那国島,始まり,アーマンチャー,アッピ,ヤドカリ,荒唐無稽,考古学的,宮古,女ばかりの村,風,子供,強い牛,外来の者,負けた,菜の花,筏,全滅,多良間,八重山,オヤケ赤蜂,反乱事件,一五〇〇年,大島,疎遠,仲宗根豊見親,琉球王府軍,先導,土原豊見親,攻めてきた,別部隊,攻略,宮古の史書,旧記,土地険阻,人々は荒く,抵抗,与那国の旧記,上陸,殺害,サンアイイソバ |
| 梗概(こうがい) | 与那国島の一番最初の始まりと言うのはね、方言ではアーマンチャーとかうアッピとか言うヤドカリ、ヤドカリが住んでいたとか、出てきたとか言う話があるんですよ。これはあまりばかばかしく荒唐無稽だから、その話は詳しく聞いてないです。与那国島は考古学的に言ってもね、何世紀ごろから始まったのか、実はあまり分からないんですよ。結局ね、与那国島の一番古い話というと宮古から移ってきたという話です。宮古に女ばかりの村があってね、男はいないけどね、風で子供を孕んで子供を産んで、そこを守る強い牛がおってね、外来の者に対しては、牛が出て力で排除したと言うようなことがあったんだが、その牛が結局負けたからね、女達は子供を菜の花の咲いているところに子供たちを皆追いやってね、自分たちは筏(いかだ)に乗ってね、宮古の島を離れて与那国に着いたと言う話があるんですよね。子供たちは恐らく全滅しただろうけれども、その女たちは与那国に着いて、また生活を始めたと言うことで、そこから初めて与那国と宮古との交通が始まったそうだという昔話があるということを聞いたんです。それで、そのころは多良間はね、八重山の所属だったって。ところがね、オヤケ赤蜂反乱事件の一五〇〇年の直前のころからね、与那国は八重山を大島(うふじま)と言ってだんだん近い八重山と交通するようになったから、宮古とは疎遠になってしまって宮古からは疑われてくるようになるわけよね。そこへオヤケ赤蜂反乱事件が起こると、宮古の仲宗根(なかぞね)の豊見親(とぅいみやー)は、琉球王府軍の先導になってね、そして多良間の土原豊見親(んたばるとぅいみやー)はその宮古の先導になって八重山に攻めてきた。そういうことで、宮古と沖縄とはそのときから一つになった。与那国は結局沖縄とはだんだん離れて八重山に所属するようになった。これは宮古としてはおもしろくないわけよね。それでオヤケ赤蜂反乱事件のときにね、宮古はね、琉球王府軍を先導して活躍するとともに、一つの別部隊を作ってね、与那国を攻略した。ところがね、与那国はね、ああいう性格の島だから人々だからね、これに対してどう対応したかと言うことだな。この対応したっと言う伝えが二つあるわけだよ。一つはね、宮古の史書の旧記の中ではね、与那国は土地険阻でね、人々は荒くてね、非常に抵抗して攻略することができずに虚しく帰ったと宮古の旧記には書いてある。結局は目的を達することはできなかったんだと書いてあるんだね。与那国の旧記ではね、宮古の軍は上陸してね、住民を欲しいままに殺害した。それをね、サンアイイソバが活動してね、辛くもこの宮古軍を追っ払った。だから、結局宮古の軍は散々な目にあわされたんだというんだね。このような二つの伝えがあるわけよね。だから、宮古の伝えと与那国の伝えとまったく正反対なんだ。しかしね、与那国の人の性格だからね、簡単には負けたはずがない。負けても必ず何かやったにちがいないと思われるんだよな。そのときにサンアイイソバの弟達は宮古の軍に殺されたと言う。 |
| 全体の記録時間数 | 12:03 |
| 物語の時間数 | 8:23 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | △ |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |