字宜野湾は旧宜野湾村の中心地帯であった。学校、役場、郵便局があり、並松があった。並松の途中に、1000mほどの馬場があり、競馬も行われた。松の木に馬をつなぎ、見物の人は松の影に皆そろって出て来て、競馬を楽しんだ。また、馬場は運動会にも利用された。そして、並松は現在の真栄原から普天間までつづいていた。首里や那覇から、人力車に乗って普天間神宮を参拝に行く人も並松を通っていた。そのように、並松は、有名であったし、宜野湾も繁栄していた。300戸余りの部落で、きびや、芋の作物をつくり、芋は、かごの一杯(50斤ほど)を、4.50銭で、売っていた。当時、台湾芋というのをつくっていて、現在の刑務所へ仲買人が持っていった。このように芋の需要は多かった。家ちくとしては、豚を養っているところがあった。それから、とうふ屋が85名ほどいて、10丁入れの箱に入れて、売りに行った。大きな街があるのでいくらもっていっても売り残して帰ることはなかった。たまに売り残すと、伊佐、喜友名、大山あたりへ売りに行った。そのように宜野湾部落は、中心地域として栄えていた。現在の飛行場あたりである。当時の物価は、とうふ10丁で80円ほど、米1しょうで50銭くらい、労務の賃金50銭くらいであった。又、芋はモッコに入れ、棒でかつぎ首里まで売りに行った。その時には、現在のメーダノアガリの泉の水をのんだ。首里の方では仲買が芋や野菜を買う為に待ちうけていた。私(話者)の兄と一緒に売りに行ったが芋2つで80銭ということであったが、もう少し行けば1円で売れるのではないかと思い、かついで儀保を越えて、とうのくらという所まで行った。しかしやはり80銭であった。そして、すぐそこだからというので運んでやると、ずっとあがた(遠い所)であった。それでバカなことをしたと思い、それからは、売りには行かなかった。昔の人はそのように苦労したものである。宜野湾部落は結束がかたかった。どろぼうが入っても、協力してすぐつかまえることができた。火災の時には、部落に6ケ所くらいのため池があって、全員ターグ(バケツ)を持って集まり、リレー式で、くい止めた。又、自警団のようなのを組織し、治安を守った。昔は、各家、みかんの木を植えてあって、仲買へ売っていたが、そのみかんを盗る人はいなかった。それはかいりょう人(現在の自 団)が見回りしたからである。今では老若男女同じように扱われるが、昔は、年寄りを尊敬しなさいなどの礼儀作法の教科があって、そういうことは徹底していた。
| レコード番号 | 47O416913 |
|---|---|
| CD番号 | 47O41C362 |
| 決定題名 | 宜野湾部落について(共通語) |
| 話者がつけた題名 | 宜野湾部落について |
| 話者名 | 中村喜和 |
| 話者名かな | なかむらきわ |
| 生年月日 | 19011128 |
| 性別 | 男 |
| 出身地 | 宜野湾市宜野湾 |
| 記録日 | 19780624 |
| 記録者の所属組織 | 沖縄国際大学口承研 |
| 元テープ番号 | 宜野湾T04B09 |
| 元テープ管理者 | 沖縄伝承話資料センター |
| 分類 | 民俗 |
| 発句(ほっく) | - |
| 伝承事情 | - |
| 文字化資料 | - |
| キーワード | 字宜野湾,宜野湾の中心地帯,普天間神宮,並松 |
| 梗概(こうがい) | 字宜野湾は旧宜野湾村の中心地帯であった。学校、役場、郵便局があり、並松があった。並松の途中に、1000mほどの馬場があり、競馬も行われた。松の木に馬をつなぎ、見物の人は松の影に皆そろって出て来て、競馬を楽しんだ。また、馬場は運動会にも利用された。そして、並松は現在の真栄原から普天間までつづいていた。首里や那覇から、人力車に乗って普天間神宮を参拝に行く人も並松を通っていた。そのように、並松は、有名であったし、宜野湾も繁栄していた。300戸余りの部落で、きびや、芋の作物をつくり、芋は、かごの一杯(50斤ほど)を、4.50銭で、売っていた。当時、台湾芋というのをつくっていて、現在の刑務所へ仲買人が持っていった。このように芋の需要は多かった。家ちくとしては、豚を養っているところがあった。それから、とうふ屋が85名ほどいて、10丁入れの箱に入れて、売りに行った。大きな街があるのでいくらもっていっても売り残して帰ることはなかった。たまに売り残すと、伊佐、喜友名、大山あたりへ売りに行った。そのように宜野湾部落は、中心地域として栄えていた。現在の飛行場あたりである。当時の物価は、とうふ10丁で80円ほど、米1しょうで50銭くらい、労務の賃金50銭くらいであった。又、芋はモッコに入れ、棒でかつぎ首里まで売りに行った。その時には、現在のメーダノアガリの泉の水をのんだ。首里の方では仲買が芋や野菜を買う為に待ちうけていた。私(話者)の兄と一緒に売りに行ったが芋2つで80銭ということであったが、もう少し行けば1円で売れるのではないかと思い、かついで儀保を越えて、とうのくらという所まで行った。しかしやはり80銭であった。そして、すぐそこだからというので運んでやると、ずっとあがた(遠い所)であった。それでバカなことをしたと思い、それからは、売りには行かなかった。昔の人はそのように苦労したものである。宜野湾部落は結束がかたかった。どろぼうが入っても、協力してすぐつかまえることができた。火災の時には、部落に6ケ所くらいのため池があって、全員ターグ(バケツ)を持って集まり、リレー式で、くい止めた。又、自警団のようなのを組織し、治安を守った。昔は、各家、みかんの木を植えてあって、仲買へ売っていたが、そのみかんを盗る人はいなかった。それはかいりょう人(現在の自 団)が見回りしたからである。今では老若男女同じように扱われるが、昔は、年寄りを尊敬しなさいなどの礼儀作法の教科があって、そういうことは徹底していた。 |
| 全体の記録時間数 | 23:36 |
| 物語の時間数 | 23:17 |
| 言語識別 | 共通語 |
| 音源の質 | 〇 |
| テープ番号 | - |
| 予備項目1 | - |